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へいわ 845

学校法人NIPPON ACADEMYでは、NIPPONへいわ学院(2017年10月1日開校)を記念し、「へいわ」の名の下に、毎週水曜日の8:45から8:55までの間、へいわのためのミニセミナー、「へいわ845」を開催します。

講師:中村紀雄名誉学院長

2020年4月21日現在...第131回をもって休止中でございます。

第131回 へいわ845 令和二年3月25日(水) 新島襄 その9

クリスチャン、イメージ

新島襄は船会社の社長であるハーディに紹介されました。ハーディは襄が徹夜で書いた「脱国の理由書」を読み心を打たれ、この青年との出会いは神の導きと信じ、物心両面で支える決意をしました。襄はハーディが理事を務めるフィリップス・アカデミーに入学しました。その後の歩みは1866年洗礼を受けキリスト者になり、1867年アーモスト大学に進みます。ここでは寮生活を経験しました。襄に対する評価は高く、ルームメイトは彼のことを「清潔そのもの、徹底したクリスチャン、完全な紳士です」と証言しました。その後の襄の大きな活躍で注目されるのは、岩倉使節団に随行し、アメリカとヨーロッパ諸国を視察したことです。襄は通訳兼案内として見事に役目を果たしました。岩倉使節団の視察は1872年(明治5年)からおよそ1年間かけて行われました。使節団の人々は襄に大変助けられました。襄が帰国して家族と再会したのは1874年11月29日のことでした。日本での新しい活躍が始まります。

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第130回 へいわ845 令和二年3月18日(水) 新島襄 その8

ボストン、地図

新島襄は遂にアメリカに一歩を印しました。1865年7月26日の日記に次のように記しました。「今日、船頭我をボストンに連れ行き、我がために上衣、股引、冠り、足袋等を買いくれり。すべての価、およそ十七ドルなり。」股引きはズボン、冠りは帽子のことです。襄は上陸と同時に先ず服装のことでカルチャーショックに遭遇したことが分かります。襄は帽子やズボンを身につけて、遠い日本のことを思っていたことでしょう。1865年といえば日本は幕末騒乱の渦の中でした。高杉晋作の活躍、薩長同盟成立、そして江戸幕府の倒壊と続いていました。8月24日の日記には、ベルリン号の船長と再会した喜びを記しています。ベルリン号は最初に襄の脱国を助けた船です。襄は「我れ喜びに堪えず、我が旧船主かな」と叫びました。この日、ボストンで火事があり、消火で蒸気機関が活躍する姿に大変驚きます。「火事と喧嘩は江戸の華」で、日本では火消しが活躍していました。

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第129回 へいわ845 令和二年3月11日(水) 新島襄 その7

ナポレオン、イラスト

襄は航海を楽しんでいました。喜望峰(ケープタウン)の姿を見て富士山を懐かしんだのは5月30日です。6月18日にはセントヘレナ島の近くを通過しました。この船が島に寄らなかったためにナポレオンの墓を一見できなかったことを残念がっています。ナポレオンが戦いに破れ大西洋の孤島セントヘレナで淋しく世を去ったのは1821年で52歳でした。襄がこの島を通過したのは1865年のことですから、ナポレオンの死からおよそ44年が経っていました。6月29日赤道をし、7月20日、遂にボストンに着きました。大海原を越えて夢にまで見たアメリカの光景を前にした時の襄の胸のうちが分かる気がします。7月24日(月)、日記に次のように記しました。「今日、ボストンに上陸せり。ロビンソンクルーソーの伝を買い得たり。価一ドル半」襄は航海の途で2冊の本を買ったことになります。他の1冊は上海で買い求めた聖書です。いよいよアメリカの物語になります。

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第128回 へいわ845 令和二年3月4日(水) 新島襄 その6

ケープタウン

前回ボストン港に近づく場面に触れましたが、そこに至る航海の様子を日誌から紹介します。襄は航海中時々父母を思い感傷の気持ちを綴っています。例えば1864年八月十五日「今夜、十五夜の月を見つつ父母の心いかんを察すれば、おのずから悲哀を催せり」。又、八月二一日「父母は今いかにありけん不如帰(ほととぎす)」。果てしない海と不思議な異国の光景を目にして襄は地球の無限の大きさに圧倒されたことでしょう。十一月三十日、サイゴン(ビルマ)の河口に入ります。近くの山に灯台があり、フランスの国旗がひらめいていると記し、土地の人は色が黒く甚だ汚いと観察しています。翌年五月三十日遂にアフリカの南端であるケープタウンに達しました。そして「長い海路に退屈せしが藍色の山層々としたるを見れば物嬉しく思われけり」と記し、富士山に似た姿に感動して次の歌を詠みました。
「我は今雪なき富士を眺めれど 父母は雪ある富士を見つらん」
ケープタウンを過ぎればいよいよ大西洋です。

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第127回 へいわ845 令和二年2月26日(水) 新島襄 その5

聖書、イメージ

新島襄は上海で別のアメリカ船に乗り換えました。ワイルド・ローヴァー号で船長はテイラーでした。この船長からJoe(ジョー)という名前をもらいました。襄は香港で中国語の新約聖書を買いたかったのですが、お金がありませんでした。そこで船長に小刀を8ドルで買ってもらい、無事に聖書を買うことができました。その喜ぶ姿が目に浮かびます。船はマニラに向い、麻を積み込んで帰国の途に着きました。マニラ港を出る時、イギリス船が待ち伏せしているという情報が入り不安が走りました。南北戦争でイギリスは南部の味方でしたから、襄の舟が攻撃を受けることを恐れたのです。しかし、南北戦争は既に終わっていたので、攻撃はありませんでした。船がマニラを出たのは1865年4月10日で、南北戦争の終結は直前の4月9日でした。船はマニラを出て一路ボストンに向いました。ボストンまで4ヶ月かかりました。ボストン港が近づいた時、船長は襄に「あれがコッド岬だ。私の生まれ故郷だ」と言いました。

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第126回 へいわ845 令和二年2月19日(水) 新島襄 その4

ベルリン号、イメージ

襄の航海日記からその冒険を紹介します。ベルリン号に潜り込むことに成功した彼は上海へ向かいます。襄は自分の命をこの新しい冒険に賭けようと思いました。彼は心の中で言ったのです。「私の企てが全て失敗しても、私の国にとっては何の損失にもならない。しかしまだ見も知らぬ国で長い流浪生活の後もし帰国が許されるなら、愛する祖国のために何らかの奉仕ができるだろう。」美しい函館が水平線の向こうに消えようとしていました。日本の島々が水平線の向こうへ消える時がついに来ました。その最後の姿を見ようと、襄はマストによじ登りました。襄は語っています。「私はいくぶん感傷的になった。私が最も苦しめられたのは、両親と祖父に対する愛情であった。しかし未来のことを思うと新たな勇気が湧いた。」日本の島の姿が視界から消えてから三日後にベルリン号は上海に入港しました。襄はその後の船中で殴られて激怒して刀を抜こうとしました。苦戦の始まりでした。

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第125回 へいわ845 令和二年2月12日(水) 新島襄 その3

新島襄、イラスト

新島襄は安中藩士の家に生まれました。従って安中藩の性格が彼の人格形成に影響を与えたことは当然でした。藩主板倉勝明は開明的で学問好きな人物でした。彼は洋学にも早くから注目していたのです。勝明は藩士から有為な青年三名を選ばせて、蘭学を学ばせましたが、その一人が新島でした。当時、学者のいる所に青年を送って勉学させる「遊学」がよく行われました。新島は函館遊学の機会を得ました。そして函館で海外渡航、つまり脱国の思いをつのらせることになりました。彼は幸運に恵まれ、イギリスの商人に雇われていた日本人店員と知り合い、意気投合するのでした。この人は福士卯之吉と言いました。この人は新島の密航を助けました。人目を忍んで真夜中に小舟に乗って出かけました。沖合に止まるアメリカ船の船長には了解を得てありました。このようにして新島はアメリカ船ベルリン号に乗り込むことに成功しました。波乱万丈の人生が始まります。

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第124回 へいわ845 令和二年2月5日(水) 新島襄 その2

聖書、イメージ

新島襄は窒息しそうな徳川の社会を嫌っていました。藩主に絶対服従する生活が嫌でした。蘭学を学び、新しい知識に胸をときめかしました。ある人から勧められて読んだ「連聯志略」には脳みそがとろけ出るほど驚きました。そこには、大統領を選ぶこと・授業料無料の公立学校・少年更生施設のことなどが書かれていたのです。又、ある聖書を学ぶ会に出席し、天地を創った神の話に大変興味を抱きました。聖書を読むと家族が磔(はりつけ)になる時代です。襄の好奇心はふくらむばかりで抑えることが出来なくなりました。襄は函館に渡り、そこで上海行きのアメリカ船ベルリン号に乗り、更にワイルド・ローヴァー号に乗り換え、4ヶ月間航海した後ボストンに着きました。アメリカに渡ることは今日の宇宙へ行くような冒険でした。当時の若者の勇気には驚くばかりです。襄が渡ったアメリカは南北戦争直後の混乱の社会でしたが、そこで襄が見た世界は信じられないものでした。

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第123回 へいわ845 令和二年1月29日(水) 新島襄 その1

新島襄、イラスト

新島襄は安中藩士の家で生まれました。それは江戸幕府の末期のことでした。日本は鎖国を続けていましたが、外では世界は大きく変化し、西欧の侵略の波は迫っていました。襄の幼名はしめた(七五三太)と言いました。女の子ばかりが生まれる中、初めて男の子が生まれたので家の人が「しめた」と叫んだことが由来とも言われます。新島襄の人生を知るためには、その時代背景が欠かせません。特に襄が脱国して向かったアメリカの状況を知らなければなりません。襄の幼少期、アメリカでは南北戦争が行われました。リンカーンの奴隷解放は、若き襄にとって大きな衝撃を与えたことでしょう。脱国に成功しボストンに着いた時、リンカーン大統領が暗殺されました。南北戦争は北が勝ちましたが、アメリカは引き続き西部へ向けて大きな発展に向う時でした。襄は嵐の中に突き進んで行ったのです。吉田松陰がアメリカを見たくて黒船に挑戦したことと対比しながら襄の脱国を語ります。

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第122回 へいわ845 令和二年1月22日(水) 田中正造 その13

事故、イメージ

東日本大震災に際して起きた福島第一原発事故は、私たちの現代社会に途方もなく重大な問題を投げかけています。九年も経つのにまだ終息しないのです。そして、この事故と共に田中正造の文明観が改めて注目されています。公害運動の元祖と言われる田中の訴えが、その没後百年以上を経てなお力を失っていないからです。「真の文明とは山や川を破壊せず、人を殺さないものでなければならない」という田中の叫びを私たちは今こそ深くかみ締めなくてはなりません。福島第一原発事故は、公害が形を変えて繰り返されることを物語っています。そして進歩として受け止められる文明が実は環境を破壊し続けていることを訴えているように思えます。谷中村の滅亡は、今日の地球の危機を予言していたと思えます。今、平和が脅かされていますが、平和こそ真の文明と共に存在するものと言えます。 田中・文明・平和。そのラインが不可分のものであることを田中は訴えているのです。

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第121回 へいわ845 令和二年1月15日(水) 田中正造 その12

原発、イラスト

政府は洪水対策として、谷中村をつぶして大量の水を溜める遊水地としました。田中はこの政策を批判し強く抵抗したのです。水源の山林を保護し育てることが急務だと主張しました。明治43年8月の大洪水は田中の主張を裏付ける結果となりました。谷中村のあたりは全て水没し、救出の船から見えるのは森林と屋根のてっぺんだけでした。政府や多くの人々はこれを天災と称しましたが、田中は「人災」だと主張し、これを天災と言うなら「ネズミの小便も天災となってしまう」と日記に記しました。当時の朝日新聞は社説で次のように書きました。「いちじるしい被害の原因は堤防が特に弱かったのでもなく、水源地森林の荒廃による土砂の流出により河川が塞がり流水を妨げた点にある。これは天災というより人災というべきだろう。誠に文明国の恥である。」「真の文明は川や村を破壊せず、人を殺さないものだ。」という田中の文明論は福島第一原発後、新たに注目されるところになっています。

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第120回 へいわ845 令和二年1月8日(水) 田中正造 その11

令和2年が始まりました。激動と混乱が加速しています。地球の危機が迫っていることを肌で感じます。この状況で国連は「持続可能な開発」を訴え、「一人でも置き去りにされない」ことを叫んでいます。これは持続不可能な状況が進み 置き去りにされる人がいかに多いかを物語るものです。田中の文明批判「真の文明とは」は今日の世界にあてはまるものです。この文明観は田中の死の前年に書かれたものですが、彼の死の年(1913年、大正2年)には軍備全廃論を日記で主張しました。軍国主義が勢いを増す中でのこの主張は、田中が並の政治家でないことを物語るものです。田中はその晩年、民衆に理解されない淋しい時を過ごしました。「誰も理解する人はいない」と嘆いたのです。大衆の機嫌取りを第一とする今日の政治家の対極にあるのが田中正造の姿です。現在民主主義が危機にあると言われます。大衆迎合主義こそ民主主義を実態のない表面的なものにしています。

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第119回 へいわ845 令和元年12月25日(水) 田中正造 その10

現在の神田川

令和元年最後の「へいわ」です。このシリーズを振り返って、平和がいかに根が深くまた大きな広がりを持つかが分かります。又、平和が長い歴史の試練に晒されてきたことを痛感します。今回はこのような思いで田中正造を考えたいと思います。そこで、「古河市兵衛」を取り上げます。田中正造が生涯に渡って戦った相手は足尾銅山の鉱毒でした。そして鉱毒を流す銅山の所有者がこの古河でした。この銅山王は、一代で古河グループという財閥を築き上げました。この男は京都の貧しい豆腐屋の子として生まれ、継母に虐待されて育ちました。戦国の武将のような人生を送った男ですが、渡良瀬川鉱毒問題の理解には欠かせない人物です。七人の妾がいたと言われます。正妻タネは明治34年の暮れの朝、神田川に身を投げて死にました。明治34年の暮れと言えば、田中正造の天皇直訴がありました。鉱毒問題に対する世論の攻撃に耐えられなかったものと思われます。 皆さん、良い年をお迎えください。

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第118回 へいわ845 令和元年12月18日(水) 田中正造 その9

足尾銅山

令和元年が終りに近づきました。田中正造の「要点」を整理して新年に臨みたいと思います。 鉱毒の被害は大変でした。天皇直訴は田中の死を決意した行為でした。大変な反響でした。田中の偉いところ、凄いところは、それを死ぬまで続けた点です。それを支えたのは勇気と信念でした。死の直前(前年)、「真の文明とは」という有名な文明批判を日記に記しました。それは今聞いても、今日の社会にあてはまるものです。田中は偉大な予言者でした。「公害運動の元祖」の意味は増々明らかです。今日、田中のような真の政治家はおりません。これから書く「谷中村の滅亡」は時を超えて、私たちの胸に迫ります。先日話した古在博士の鉱毒分析の姿は学者の良心を示し、学問の何たるかを教えるものです。ケネス・ストロングは田中のことを「世界的に偉大な人物」と紹介し、「工業公害と戦った世界最初の真剣な運動の創始者」と評しました。この外国人の話についても少しずつ進めるつもりです。

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第117回 へいわ845 令和元年12月11日(水) 田中正造 その8

公害、イメージ

今回は黒澤酉蔵を取り上げます。「ある人との出会いが人の一生を決めることがある。私にとってその人とは田中正造だった。」と黒澤は人生を振り返りました。黒澤は水戸の生まれです。母が行商して家計を支えるという貧しい家で育ちました。青雲の志を抱いて上京したのが17歳の時でした。そしてこの年に田中正造の直訴事件が起きました。黒澤の衝撃は大きく、矢も盾もたまらず田中に手紙を書きました。田中に会って驚いたのは、話に聞いていた絶叫する恐い顔ではなく、慈父のような優しい表情だったことです。黒澤は田中に勧められて鉱毒地を視察し、その惨状に強い怒りを抱きました。以来田中のために奔走しました。田中を最も良く知る人物です。後に雪印乳業を創設した黒澤は、田中の真実を後世に伝えるため、田中正造全集をつくることを決意します。岩波書店が全面的に協力し、全十八巻が完成しました。黒澤はこれを「紙の金字塔」と言いました。黒澤を知ることは、田中に迫る巨大な一歩なのです。

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第116回 へいわ845 令和元年12月4日(水) 田中正造 その7

バチカン市国
鉱山、イメージ

今回は古在由直を取り上げます。足尾鉱毒事件と田中正造を語る時、古在由直博士の存在は欠かすことが出来ません。神童と言われる程優秀でしたが、同時に正義感が深い少年でした。東京農科大学教授を経て後に東京帝国大学総長になった人です。古在博士のもとへ農民代表が鉱毒の調査を持ち込みました。農民は古在氏が公平無私で誠実な人と聞き、助けを求めたのです。古在博士はそれを受け入れ、権力の圧力にも屈せず土壌を分析し、鉱毒の原因は足尾の銅山であることを立証したのです。現地の調査を一高生たちが必死に助けたことも注目すべきことでした。 この立証は田中正造と農民の運動にとって大きな助けになりました。とかく感情に突き動かされ、理論的根拠の点で弱くなりがちな大衆運動にとって、科学の援軍は百万の味方と言えるからです。なお、この古在由直博士は高山村の群馬天文台長を務めた古在由秀氏の祖父でありました。この世界的天文学者の話にも触れたいと思います。

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第115回 へいわ845 令和元年11月27日(水) 田中正造 その6

バチカン市国
バチカン市国

毎日新聞連載の「田中正造」が先週23日第4回を迎え、いくつかの反響が起きてきました。併行して行っている「へいわ」の講義にとって大きな励ましです。田中は死の前年の日記で「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」と書きました。この鋭い文明論は時を超えて今日の私たちの社会に当てはまるものです。田中は予言者であったと思います。文明を科学の進歩と考えるなら、理念のない文明は自殺行為に見えます。ローマ教皇が長崎の被爆地に立って、核を鋭く批判してそれを進めることはテロだと発言しました。田中が広島と長崎の被爆地に立てば 教皇と同じことを発言するに違いありません。現在、日本は破局に向いつつあるのに、「真の文明は」と訴える政治家がおりません。私の連載に「よみがえる田中正造」とあるのは、この現代に田中をよみがえらせねばならないという私の思いからです。今日も「へいわ」で田中の真の姿を切り取って示します。

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第114回 へいわ845 令和元年11月20日(水) 田中正造 その5

公害イメージ
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今回は田中正造を知る上で重要な2人の人物を紹介します。荒畑寒村と幸徳秋水です。荒畑寒村は「谷中村滅亡史」を書いた人で、幸徳秋水は田中正造のために直訴状を書きました。この2人のことはちょうど毎日新聞の連載第3回で取り上げていますが、私はそれとは別に興味あるエピソードを話します。寒村は血気の社会主義者で、若冠20歳の時、燃えるような義憤に駆られて「谷中村滅亡史」を一気に書きましたが、この本は出版と同時に発売禁止処分となりました。幸徳秋水は田中正造の情熱に共鳴して直訴状を書いた人ですが、別の大逆事件に連座して死刑になりました。この2人の人物を、エピソードを知ることにより田中の実像に迫ることが出来ると思います。あわせて谷中村のことも語ります。谷中村は足尾銅山問題の犠牲となって滅亡させられた村です。鉱毒問題が日本の公害の原点と言われる意味に谷中村の滅亡を通し切込みます。田中正造を甦らせる意味がわかるでしょう。

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第113回 へいわ845 令和元年11月13日(水) 田中正造 その4

公害イメージ
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田中正造の直訴がきっかけとなって、今まで足尾の鉱毒問題に関心が薄かった人々も一挙に燃え立ちました。特に学生鉱毒視察団が結成されたことは今日の私たちの目から見て驚くべきことです。上野駅から特別列車に参加した学生は千名を超え、その数は途中の駅で更に増えました。東大・早稲田をはじめ東京のほとんどの大学から学生が参加しました。学生たちは列車の中で声を合わせて「鉱毒地を訪うの歌」を歌いました。その光景は明治という立ち上がる国の勢いを示し、学生たちの純粋な志を伝えるものとして衝撃的です。歌の一部を紹介します。 「帝都をいでて二時間をこえぬや古河のきしゃの旅」で始まり、「足尾の山の毒流のそそぐやながき年月を、渡良瀬川の沿岸は、すべて生きたる色もなし」と続くのでした。 この視察に参加したある人は「鉱毒地の惨状はとうてい筆舌をもって言い表すことはできなかった」と当時を振り返りました。公害に立ち向かう若者の姿を話します。

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第112回 へいわ845 令和元年11月6日(水) 田中正造 その3

足尾銅山跡
足尾銅山跡

田中正造は帝国議会で有名な「亡国演説」を行いました。「政府が鉱毒を流し続け、そのことが国を亡ぼすことを知らないとすれば、それこそが亡国だ」というのです。いつもはヤジの声で溢れるのに、この時、議場はしんとしました。田中正造はあることを密かに決意していたのです。名演説とは流れる言葉の美しさではなく、いかに人の心を打つかにあります。田中正造はこの演説の後、衆議員を辞職し明治天皇に直訴したのです。正造の思いを聴き取って、直訴状に仕上げた人は幸徳秋水でした。「お願いがございます。」奇妙な髭の男が人を分けて天皇の馬車に進み出たのです。護衛の隊長は、騎馬の上から長刀を振り下ろしました。満都の新聞は号外を出し世論は一気に沸騰したのです。特に注目されるのは若者の反応でした。旧生中学の石川啄木はその感動を歌に詠み、東大生を中心にした千名を超える学生たちは鉱毒歌を歌いながら被災地を目指しました。その先頭に立ったのは内村鑑三でした。

へいわ845

第111回 へいわ845 令和元年10月30日(水) 田中正造 その2

公害イメージ
環境問題、イメージ

足尾の銅山から流れる毒は山を枯らし、命の流れを悪魔の川に変えました。多くの住民が抗議に立ち上がりました。その拠点は館林市の雲竜寺です。千人を超える人々が東京を目指し、警察官と激しく衝突したのです。多くの怪我人が出ました。川俣事件といいます。 田中正造は栃木県の県会議員から衆議院議員になりました。帝国議会で激しく政府を追及する姿は有名でした。明治時代に早くも公害問題を取り上げ、命をかけた姿は驚くべきことです。田中正造は死の直前(前年)、日記に記しました。「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」と。これは環境問題についての予言であり、極めて今日的です。現在、文明の危機を迎えているからです。この話の先には田中の明治天皇直訴事件があります。毎日新聞と並行して進めるこの講義を、皆さんが大切にして下さることを願います。皆さんの心を豊かにし、NIPPON ACADEMYの基礎を固めると信じます。

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第110回 へいわ845 令和元年10月23日(水) 田中正造―死の川に抗って―

公害イメージ
公害、イメージ

毎日新聞(群馬版)で、私の「田中正造」の連載が始まりました。隔週の土曜日です。毎日新聞が力を入れているには理由があるのです。それを踏まえ「へいわ」の講義を進めます。田中正造は栃木の人ですが、群馬県にも大きな関わりを持ちました。その生涯を足尾銅山の鉱毒事件に捧げました。1913(大正2)年に73歳で世を去りました。その行動と思想は極めて今日的です。連載の副題を「よみがえる田中正造」としたのはこのことを意味します。私はよみがえらせなければいけないという信念で連載の筆を執り「へいわ」を進めます。公害問題の元祖でした。死を覚悟して明治天皇に直訴した事件は当時の若者の心を燃え上がらせました。今日地球滅亡の危機が叫ばれていますが、田中の予言が的中していると思えます。平和もよい環境なくして成り立ちません。私の講義が皆さんの心の財産を形成すると信じます。第一回は見取り図を紹介することになるでしょう。ご期待ください。

へいわ845

第109回 へいわ845 令和元年10月16日(水) 偉大な人、リンカーン 最終回

リンカーン像
リンカーン記念館

リンカーンの最大の願いは連邦の分裂を防ぐことでした。それは「自由・平等・幸福の追求」という理念を基盤としたアメリカ―デモクラシーを守るためでした。彼の指導により北部が南北戦争に勝つことによって、連邦は守られました。 又、もう一つの彼の願いは「アメリカはこうあるべきだ」という「道徳的な目的」の達成でした。それは「奴隷解放」により実現されました。彼の業績はアメリカの歴史に世界的な意味を与えたと言えます。 リンカーンは第二次の大統領就任演説で「何人に対しても悪意を抱かず、すべての人に慈愛を」と述べましたが、これは、アメリカ人はもとより、すべての人間に世界平和の理念を説いたものです。 最後に、以上をまとめて、私は次のように強調します。「リンカーンの遺産は、アメリカの分裂を防ぐことに成功し、さらにアメリカの政治に高い道徳的目的を与えたことです。」 次回からは田中正造を取り上げます。毎日新聞に週一回のペースで連載が始まりました。

へいわ845

第108回 へいわ845 令和元年10月9日(水) 偉大な人、リンカーン(分裂の危機のまとめ3)

ホワイトハウス
ホワイトハウス

1865年4月9日、南北戦争は終わりました。それは4年続き、死者は北部と南部合わせて60万人でした。初当選以来、リンカーンは常に暗殺の危険に晒らされていました。毎日脅迫状が舞いこみ、封筒の束には「暗殺関係書類」と書かれていました。リンカーンはいつも死が頭から離れず、何度も悪夢に悩まされました。4月の初め、リンカーンは自分が暗殺され、額に覆いがかけてあるリアルな夢を見ました。運命の日4月14日がきました。これは「聖金曜日」、キリストが処刑された日でした。この日の午前に閣僚会議が開かれ、リンカーンは強調したのです。「私は南部に厳しい処置をとるつもりはない。もう十分血が流された。これ以上血を流す必要はない。」この日遅くリンカーンは妻メアリーとフォード劇場に向かいました。二人は特別席に着きました。それは舞台を見おろすボックス席でした。芝居はすでに始まっていました。それは評判の「喜劇」でした。しかしこの時最大の「悲劇」が近ずいていました。

へいわ845

第107回 へいわ845 令和元年10月2日(水) 偉大な人、リンカーン(分裂の危機のまとめ2)

へいわ、リンカーン、ラシュモア山
ラシュモア山の彫像のイラスト。
一番右がリンカーン

今回は先ず「ゲチスバーグ」について前回述べ足りなかった点を少し説明します。ゲチスバーグは小さな町でしたが、戦略的に極めて重要でした。そして最大の犠牲者を出したこと及びリンカーンの演説の重要性を何度も強調しなくてはなりません。次に、今日述べる重要なこととして、リンカーンが戦争継続中に大統領の任期を迎え、再選されたことが挙げられます(1864年11月8日)。そして翌1865年1月、リンカーンの必死の努力で「憲法修正条項13条」が議会を通過しました。リンカーンはこれを道徳の偉大な勝利と賞賛しました。そして、リンカーンは就任演説で「この悲惨な戦いは神が下した罰である。この国が奴隷制度を広げたことに対する罰である。」と訴えました。1865年4月9日「リー将軍降板す」の電報がリンカーンに届きました。リンカーンは多くの人を処刑から救いました。アメリカは分裂の危機は免れましたが、大変な荒廃が残りました。この直後にリンカーンの悲しい運命が待ち受けます。

へいわ845

第106回 へいわ845 令和元年9月25日(水) 偉大な人、リンカーン(分裂の危機のまとめ1)

へいわ、リンカーン、ラシュモア山
ラシュモア山の彫像のイラスト。
一番右がリンカーン

リンカーンは人間の自由・平等という大きな理想を信じて一歩一歩政治家の道を歩み、遂に頂点に達する時が来ました。1861年の大統領選で第16代の大統領に選ばれたのです。奴隷制に反対する大統領が実現したことで、南部は別の国を作り、南北戦争となりました。南軍の司令官は戦上手なリー将軍。北軍の司令官は名将グラント将軍。多くの攻防が繰り返されましたが、「ゲチスバーグ」は多くの街道が集まる、最も重要な場所です。北軍が勝つと黒人たちはリンカーンに「神様!」「わたしたちの救い主!」と跪いて拝みました。ここで、ゲチスバーグの演説と奴隷解放宣言を皆さんともう一度噛み締めましょう。戦いが終わった時、「南部から賠償金を取ろう」「捕虜を皆殺しにしよう」、こういう意見もありました。リンカーンがどのような決定を下したか。そこにリンカーンの偉大さが示されます。ゲチスバーグの演説と日本国憲法の繋がりも話します。「へいわ」の講義のハイライトです。

へいわ845

第105回 へいわ845 令和元年9月18日(水) 偉大な人、リンカーン(政治家への大きな歩み)

へいわ、リンカーン
$5札

リンカーンは地方議員を重ね、弁護士も順調にいき、地方の名士になります。37歳の時、ホイッグ党の指名を得て下院議員に当選しました。この頃、カリフォルニアで金鉱が発見され、また42歳の時に父が死亡しましたが、リンカーンは葬儀に出席しませんでした。そして「アンクルトムの小屋」が出版されました(1852年、リンカーン43歳)。この頃、南北の対立は頂点に達しました。リンカーンは語りました。「奴隷制度は諸悪の根源です。癌です。この国で手に負えない程大きくなりつつあります。それは間違っているだけでなく、あらゆる人々の権利を脅かしています。奴隷になりたくない人間は奴隷を持つべきではありません。他人の自由を否定する人間は自由を否定されて当然なのです。」リンカーンはアメリカの民主主義の根本は独立宣言にあると固く信じていました。それには、「全ての人間は自由・平等で幸福追求の権利を持つ」とあります。リンカーンはこれを自分の人生と重ねて考えたのです。

へいわ845

第104回 へいわ845 令和元年9月11日(水) 偉大な人、リンカーン(政治家への道)

へいわ、リンカーン
リンカーン、イラスト

リンカーンは2度の挑戦で遂にイリノイ州の州会議員に当選しました。25歳でした。政治家としての一歩でした。リンカーンは政治家として大きく成長するために法律を独学で学び、28歳の時、弁護士の資格を取得しました。リンカーンはニューセイラムからスプリングフィールドに移り、弁護士として政治家として、活躍しました。スプリングフィールドはイリノイ州の新しい州都になったのです。当時のアメリカは「ホイッグ党」と「民主党」の2大政党の時代でした。リンカーンはホイッグ党の政治家でした。ホイッグ党は「合衆国政府が大きな権限をもって国を導くべきだ」という考えであり、一方民主党は「各州がそれぞれ政治を進めるべきで、政府はあまり口を出すべきではない」という立場です。共和党の出現は後のことです。リンカーンはメアリーという美しい娘に恋をし、33歳の時結婚しました。政治にもまれる中で平和とそれを実現することの大切さを知ります。

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第103回 へいわ845 令和元年9月4日(水) 偉大な人、リンカーン(開拓地の少年・その2)

へいわ、リンカーン
リンカーン、イラスト

リンカーンは16歳の頃、身長は180センチ以上、レスリングとかけっこは近隣でかなうものはいませんでした。正規の学校はほとんど通わなかったのですが、人生で必要と考える本をよく読みました。その一つに「雄弁術入門」がありました。イリノイ州のニューセイラムという村で独立し、この村で中心的な存在になります。乱暴者の一団と争って勝ち、その頭と親友になりました。23歳の時、イリノイ州の議会議員に立候補し、地域の発展のための政策を打ち出して頑張りましたが、わずかの差で落選しました。リンカーンは雑貨店を始めましたが失敗し、彼が「国家的規模」と言った程の借金をしました。また、ニューセイラムの郵便局長も経験しました。1834年、遂に州会議員に当選しました。25歳の時でした。リンカーンは政治家としてもっと大きく成長するために法律を勉強して弁護士の資格を取得しました。リンカーンは辺境の地で働きながら学び、社会の発展と平和のために尽くそうと決意していました。

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第102回 へいわ845 令和元年8月28日(水) 偉大な人、リンカーン(開拓地の少年)

へいわ、リンカーン
リンカーン、イラスト

リンカーンは、1809年ケンタッキー州の丸太小屋で生まれました。学んだ学校は窓のない丸太づくりの校舎でした。両親は読み書きができない人でした。母の名はナンシー、父はトーマスでした。リンカーンが9歳の時、母が亡くなりました。新しい母は3人の子供を連れた人でした。この人は思いやりのある優しい人で、リンカーンを自分の子と同じように育てたのです。リンカーンは余り学校に行けませんでした。「全部にしても一年にならない」と自分で語っています。リンカーンが学んだのは借りた本と新聞でした。気に入った本は何度も繰り返し読みました。「ロビンソン・クルーソー」、「アラビアンナイト」、「ワシントンの伝記」などに胸をときめかしました。ワシントンの伝記の中の独立戦争の部分には特に感動しました。働きながら学ぶことの大切さが分かります。リンカーンの心に芽生えた小さな芽はやがて彼自身を支える大きな幹に成長しました。謎の実像に近づきたいと思います。

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第101回 へいわ845 令和元年8月21日(水) リンカーンの偉大さ

へいわ、自由
リンカーン、イラスト

「アンクルトムの小屋」を踏まえて、リンカーンに入ります。トムが生まれたのはケンタッキー州でした。リンカーンもこの州の丸太小屋で生まれました。少年の頃、ミシシッピー川を下り川口の都市ニューオーリンズに至り、奴隷が競売にかけられている光景に衝撃を受けました。リンカーンは独学で勉強し、政治家を目指します。この頃、奴隷制はアメリカの国家的な課題でした。アメリカはイギ¬¬リスから独立した国です。独立宣言には、人間は全て神の下で平等である、と揚げられていました。奴隷の存在は明らかにこれと矛盾します。世界の情勢は大きく変化していました。イギリスから始まった産業革命は大きく進み、アメリカ北部はこの影響を受け機械工業が大きく発展していました。一方南部は綿花を中心とする大農園地帯で、それを支えるのが奴隷の存在でした。奴隷制を巡りアメリカは国家分裂の危機に直面します。この分裂を何としても回避したいとリンカーンは決意していました。

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第100回記念講演 へいわ845 令和元年8月5日(月) 平和の祭典

第100回記念回、平和の祭典、前橋市民文化会館にて

第99回 へいわ845 令和元年7月31日(水) ストウ夫人のこと

へいわ、自由

ストウ夫人は7人の子供をかかえ、せわしない家事の傍ら作品を書いて家計を補いました。ストウ夫人はオハイオ川の船着場で黒人の夫婦が別々に売られる姿、子供が親の手からもぎとられる光景を実際に見ました。怒りが胸にこみ上げた夫人は、ボストンの奴隷制度反対本部に行き、売られた奴隷たちのその後を調べました。そこで夫人は幼児を抱えてオハイオ川の氷の上を死にもの狂いで逃げた女の話を知りました。もう黙っていられなくなり、家庭の夕食後の台所のテーブルで、あるいは育児室のかたすみでペンを走らせて小説を書きました。この本が書店に並んだ日に三千部が売れました。ロンドンでこの本を読んだ女性たちは奴隷の解放を祈り、50万人の人たちが嘆願書に署名してストウ夫人に送りました。戦争を巻き起こしたと言われたストウ夫人は世界における平和の基盤を人々の心の中に作ったのです。平和を支える平等と人権、女性の力を学びたいと思います。

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第98回 へいわ845 令和元年7月24日(水) 人種差別と平和24

へいわ、自由
へいわ、イメージ

シェルビー家のぼっちゃん、ジョージ・シェルビーはトムの墓に別れを告げ、ケンタッキーに帰りました。ある日ジョージは屋敷中の奴隷を集め、一人一人に自由を与える証明書を手渡して言いました。「お前たちはもう、売られたり買われたりすることはない。僕はトムじいのお墓の前でお前たちをトムのような目に合わすまいと誓ったのだ。自由になれたのはトムのおかげなのだ。トムじいの小屋を見るたびに、トムのような立派な人になろうとつとめておくれ」ジョージがこう言うと黒人たちは一斉に神に感謝しました。リンカーンは南北戦の中で奴隷解放の宣言を出しました。5年間も続いた南北戦争は62万人もの死者を出して北軍の勝利に終わりました。最大の激戦地ゲチスバーグの式典でリンカーンはある有名な演説をしました。それは平和と民主主義にとって非常に重要です。その言葉と共にストウ夫人の真の狙いを振り返ることにします。

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第97回 へいわ845 令和元年7月17日(水) 奴隷たちはついに自由に

へいわ、自由
自由、イメージ

立派な客船がミシシッピー川を上っていきます。品の良い背の高い婦人が船室から出てきます。黒人のかわいい少女がお供です。 残酷なレグリーの所から逃げたキャシーとエメリンでした。キャシーの隣の船室からフランス人の婦人が出てきました。これらの人々はジョージ・シェルビーを中心にして話し始めます。人々は、ここは安全な場所だと知って安心して見の上を話しました。そして驚くべきことが明らかになります。フランス人の婦人はジョージ・シェルビーがケンタッキーの者だと知ると熱心に話しかけてきました。「もしかして、あなたの近くにジョージ・ハリスという者が居ませんでしたか」「あの男は今カナダに逃げています」ジョージ・シェルビーが答えました。「あれは私の弟なのです」フランス人の女性は自分の不思議な身の上を語ります。客船はミシシッピー川をすべるように北上していきます。この物語が終わりに近づく頃、南北の対立は増々激化していました。

へいわ845

第96回 へいわ845 令和元年7月10日(水) 自由を掴む時

へいわ、世界のみんな
へいわ、イメージ

この物語の終盤はミシシッピー川を遡る船の上で語られます。我が子を抱いて氷のオハイオ川を逃げたエリザ、その夫でひどい主人から逃亡したジョージ=ハリス、トムの初めの主人の子であるジョージ=シェルビー、そして屋根裏部屋に隠れ、その後逃げたキャシーとエメリンなど。これらの人々の運命はどうなったのでしょう。過去を振り返りながらそれを語ります。同時にこの物語の時代背景を知ることが非常に重要です。南部と北部の対立は、奴隷問題をめぐって激化し、アメリカという国が分裂する危機に陥りました。この物語が奴隷制を厳しく非難した意味を、物語を振り返りながら改めてかみ締めます。そして私はリンカーン登場の準備にかかります。「アンクルトムの小屋」は小説ですが、背景は歴然とした史実でした。この小説とリンカーンを理解することにより、私たちはアメリカの真の偉大さに近づくことが出来ます。それは極めて今日的問題を問いかけています。

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第95回 へいわ845 令和元年7月3日(水) 人種差別と平和22

へいわ、天使
へいわ、イメージ

トムの死を少し詳しく繰り返します。残忍なレグリーは逃げた2人のことを白状しろと激しく責めました。トムは「殺されても言いません」と言いました。レグリーは言います。「きさまの血を絞りとってやる」トムの耳に神の声が聞こえました。「肉体を殺す者を恐れるな」と。 そして、トムは息を引き取りました。前回、元の主人の息子ジョージが現れたことを書きました。ジョージはケンタッキーからトムを捜して南部にやってきたのです。転売されたトムをやっと捜し当てたのです。しかし、それはトムが死んだ直後でした。ジョージはトムをほうむるために砂丘に穴を掘り、自分のオーバーをかけて言いました。「トムじい、これだけしかしてやれない。着ていっておくれ」。そしてジョージは手を合わせ、次のようにトムに誓ったのです。「呪われた奴隷制度をこの国からなくすために全力を尽くします」。若いジョージの体は怒りでふるえていました。

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第94回 へいわ845 令和元年6月26日(水) 人種差別と平和21

へいわ、イメージ

トムの新しい主人レグリーはいやしい悪魔のような男でした。買われた奴隷の中に美しいエメリンがいて、レグリーは「あんたを俺の奥さんにする」と言いました。エメリンは蛇の沼を通っても逃げる決意でした。奴隷たちの中にキャシーという品の良い中年の女がいて、エメリンを助けます。レグリーは迷信深く幽霊の部屋を信じて恐れていました。ある日、キャシーはエメリンを助けて逃げました。実は逃げたと見せかけて幽霊の部屋に隠れたのです。一方、レグリーは「魂は売らない」と言って抵抗するトムをひどく殴り、トムは動けなくなります。瀕死のトムは聖書を握りしめて、とうとう死んでしまいます。この時、一人の若者がレグリーの前に現れます。ケンタッキーのトムの前の主人の息子のジョージで、トムを買い戻しに来たのです。ジョージは怒ってレグリーを殴り倒しました。このどさくさの中で、キャシーとエメリンは逃げることに成功します。

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第93回 へいわ845 令和元年6月19日(水) 心までは売られない

へいわ、心、イメージ

トムを自由にするという約束は守られず、トムは奴隷市場に立たされることになりました。トムは生きた商品として競売にかけられ買われてしまいました。買ったのはサイモン・レグリーという人で、ニュー・オーリンズの南部に綿畑を持っていました。トムは聖書は取り上げられないようにすばやく隠しました。トムと一緒に買われたのはエメリンという美しい奴隷でした。トムとエメリンは鎖で繋がれ農園に連れて行かれました。主人のレグリーはある女奴隷に罰を加えることになり、トムにムチで打てと命じました。トムは「できません」と断りました。「これでもできないか」とレグリーはトムを殴ります。そして言いました。「お前は心も体も俺のものだ」「いえ、私のたましいは、だんな様でもどうにかすることは出来ません」トムは従いません。レグリーは美しいエメリンを「俺の奥さんにする」と言いました。奴隷を人間として扱わない、この価値観が地殻変動を起こす時が来ます。

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第92回 へいわ845 令和元年6月12日(水) エバとその父セントクレアの死

へいわ、イメージ

金髪の美少女エバの死が近づきました。トムはエバの部屋の外で寝て神に祈っていました。父セントクレアは大変な悲しみようでした。エバは言いました。「私は天国に行くのです。死ぬのではありません」。この小説で母親のマリイはあまり良い女性として描かれていません。病気がちでヒステリックな女性ということになっています。しかし、エバが死んだ時は大変なげき悲しみました。セントクレアの屋敷にはオフィリアという女性がいました。セントクレアのいとこで、マリイが病身ということもあって北部から手伝いに来ていました。悪いことは重なるものです。エバの死後、セントクレアは町のけんかに巻き込まれ刺されて重体になりました。セントクレアの死が近づいた時、この人はトムを自由にするとエバに誓ったことを実現する手続きを進めました。セントクレアの死後、妻のマリイはトムを自由にすることに大反対しました。一番高く売れる奴隷だからという理由でした。トムの運命はどうなるのでしょうか。

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第91回 へいわ845 令和元年6月5日(水) エバとトムの運命

聖書、イメージ

前回の続きです。トムはケンタッキーの丸太小屋が懐かしくてたまりませんでした。そんな時に手紙が届いたのです。手紙はジョージ坊ちゃんが書いたものでした。「その手紙はトムジイの宝ね」とエバが言いました。手紙にはトムの丸太小屋はトムが帰ったらまた開けて手入れする計画だともありました。ところで、毎日トムに聖書を読んでやる美少女エバに忍び寄る黒い影がありました。ある時エバは空を見詰めてトムに言ったのです。「トムじい、あたし、もうじきあそこへいくの」。エバはげっそりやせていました。トムはドキッとして言葉もありません。エバは、父セントクレアに言いました。「お父様、私が死んだらすぐトムを自由にしてやって」。「よしわかった。お前の言う通りにするよ」父は言いました。「ありがとう大好きなお父様」。父娘は抱き合いました。エバの身に何が。この場面は多くの白人女性の涙を誘いました。奴隷制への反対の声が高まります。

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第90回 へいわ845 令和元年5月29日(水) 人種差別と平和 その17

奴隷、イメージ

今回は話を再びケンタッキーのシェルビイ屋敷に戻します。アンクルトム及び子供を抱いて逃げた美人奴隷が居た屋敷です。トムからの手紙に、「買い戻してもらえる日を待っている」とありました。主人のシェルビイはトムを買い戻す約束をしていましたが、まだその金がないのです。奴隷のクローばあやが、週4ドルの仕事で働くことを決意します。ルイスビルという町の菓子屋でケーキやパンを焼く人を探していたのです。「じいやを買い戻すのに何年働いたらいいですか」「4、5年でしょうが、私も足してあげるからそんなにかかりませんよ」。ばあやと夫人はこんな会話を交わしました。話が決まると、屋敷のジョージぼっちゃんは、さっそくトムに手紙でそのことをくわしく知らせました。トムの喜ぶ姿が目に浮かびます。トムは返事を何度も読み返しました。ストウ夫人は過酷な奴隷売買が行われる中で、人道主義が行われることを描きます。そういう間にも時代は大きく変化します。

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第89回 へいわ845 令和元年5月22日(水) 奴隷の少女トプシーのこと

少女、へいわ、イメージ

エバの父セントクレアはある時、きたない奴隷の少女を買ってきた。セントクレアは、小さな料理屋でせっかんされ泣きわめいている子を見かねて買ってきた。セントクレアの家で裸にして体を洗った。少女の背はミミズばれの鞭のあとがいっぱいあった。この少女はトプシーといった。父も母も知らない。神様のことも知らない。すきを見て屋敷のものをすぐに盗んだ。ウソをつくし、手におえない子だった。屋敷にはセントクレアのいとこでオフェリアという女性が家事を手伝っていた。オフェリアはトプシーを教育することを決意する。トプシーは歌ったり、踊ったりが得意だった。エバはトプシーに優しく接した。動物のように扱われ、人の情を知らないトプシーが次第に変化していく。ストウ夫人は、真黒な奴隷の少女が教育によって人間になっていく姿を描こうとする。同じ人間が環境によって、教育の有無によって変わってしまうことを訴える。人々の奴隷を見る目が変わっていく。

へいわ845

第88回 へいわ845 令和元年5月15日(水) 南部の人々

南北戦争、イメージ

美しい少女エバとその父セントクリアは北部の旅から帰る船の上。売られたトムが乗っていた。ミシシッピー川に落ちたエバをトムは助け二人は親しくなる。エバは父に頼んでトムを奴隷商人から買ってもらう。船はニューオーリンズに着く。大きな奴隷市場があり奴隷が売られていた。セントクリアは大農園の主人で屋敷には多くの奴隷がいた。船旅の途中で信頼を得たトムは御者になった。主人のセントクレアは酒を飲んで身体をこわしていた。トムは涙を流しながら酒をやめるように頼む。トムは幸せだった。これほど豪華で美しい家を見るのは初めてだった。屋敷から一歩出るとサトウキビや綿の農園が果てしなく広がっていた。鎖でつながれ、鞭で打たれて働く奴隷たちが農園を支えていた。白人の豪華な生活もその上にあった。しかし、白人の天国はいつまでも続くことはなかった。映画「風と共に去りぬ」の世界であった。世界の情勢は激しくうごきつつあった。

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第87回 へいわ845 令和元年5月8日(水) 南と北の対比。ペンは剣より強し

トムは南へ、エルザは北へと動きます。南へ南へと売られることは奴隷としてますます窮地に追い込まれることを意味します。エルザはこれと反対の運命を辿ります。エルザはケンタッキー州、オハイオ州、そしてインディアナ州へと。インディアナ州では神を固く信じるクエーカー宗徒の人々に助けられます。ストウ夫人が北と南をこのように対照的に描く狙いは明らかです。迫る追手に向かって夫のジョージは叫びました。「ぼくはハリスさんの持ち物ではない。ぼくの妻も子も、みんな自由だ。この自由は命をかけて守る」。クエーカー宗徒たちは、ジョージ一家を神の名の下で命をかけて守ります。その信念は敵に対しても同じです。ジョージの一発を受けて血を流す追手を温かく手当てして助けたのです。奴隷を物として扱い残虐にムチ打つ南部の人たち。同じ人間として尊重し、傷ついた敵までも助ける人々。この対比とストウ夫人の筆の力が多くの人々の心を動かしました。正に「ペンは剣よりも強し」です。

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第86回 へいわ845 令和元年5月1日(水) ついに銃撃戦

追いつかれそうになった時、岩山に逃げ込みます。ジョージは「私たちは自由な人間です。自由をこのピストルで守ります。」ジョージの弾が一人に当たります。荒くれ男たちは傷ついた仲間をおいて逃げました。エリザは言いました。「出血がひどい。手あてして助けてあげましょう。」ジョージとエリザは男を馬車に乗せてクエーカー宗徒の家に運びました。そこで人々は流れる血をやさしくふいて温かく手当しました。 (ストー夫人は、残酷な奴隷商人と対置させ、黒人奴隷の立派な人間像および正しい心をもった白人の行動を描きました。このような手法は心ある白人、とくに白人女性の心を動かし奴隷制に対する非難の声が燎原の火のように広がりました。リンカーンが「あなたは南北戦争を巻き起こした婦人」と言ったのは、ストー夫人の成果を示すものです。)

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第85回 へいわ845 平成31年4月24日(水) 夫と再会、追手が迫る

エリザはクエーカー宗徒の家で温かく保護されていました。ここで懐かしい夫のジョージと会うことができました。しかし、そこで恐ろしい情報を知ります。追手はジョージをとらえてみせしめのためひどい「おしおき」をし、エリザはニューオリンズで売りとばそうという計画です。追手は6、7人の強い男たちでした。ジョージはピストルを握りしめて戦う決意を示しました。ジョージを助ける人と共にジョージの家族は深夜馬車で出かけました。追手は8人位で、すぐ後ろに近づいていました。あらあらしい男たちの叫ぶ声が聞こえます。ジョージはピストルを握りしめました。これから西部劇の世界が展開します。

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第84回 へいわ845 平成31年4月17日(水) 奴隷を助ける白人たち その2

クエーカ宗徒のハリディ夫人はエリザに言いました。「あなたはどうしてもカナダへいくつもりなの」「はいおくさま。ゆうべも奴隷商人がハリーをつかまえに来た夢を見ました」その時、一人のたくましい男が入ってきてハリディ夫に何かをささやきました。エリザは自分をさがす広告がでたのではないかとまっ青でした。ハリディ夫人はおびえているエリザに意外なことを言いました。 「神様はあなたにおめぐみをくださいましたよ。あなたの主人は、いま、わたしたちのなかまの家にいますが、今夜ここにみえますよ。」それを聞くとエリザは「今夜、今夜」とくりかえし、へなへなとゆかに座り込み気を失ってしまいました。エリザは目を醒ましました。かた時も忘れたことのない夫のジョージがのぞき込みその涙がエリザの顔に落ちていました。外では追っ手が迫っていました。

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第83回 へいわ845 平成31年4月10日(水) 人種差別と平和 その10、奴隷を助ける白人たち

トムは売られていく途中、ミシシッピー川に落ちた美少女エバを助けました。エバは父親セント・クレアにトムの主人になるように頼みます。セント・クレアは奴隷商人に大金を払いトムを買いました。そこはニューオリンズの港でした。セント・クレアはトムを馬車の御者にしました。エバは嬉しそうに笑いました。 ところで混血の美人奴隷エリザはどうしたでしょうか。エリザはインジアナのクエーカー宗徒の家に移っていました。クエーカー宗徒の老婦人がたずねました。「あなたはどうしてもカナダへ行くつもりなの。あなたはいつまでもここにいていいのよ。この村にきたものはみんな神様が守ってくれるのよ。」エリザは「私はカナダへ行きます。」エリザは決意を示して言いました。奴隷を助ける白人の輪が広がります。

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第82回 へいわ845 平成31年3月27日(水) 人種差別と平和 その9、奴隷を助ける人々

氷がぶつかり合うオハイオ州を渡ったエリザ母子はその後どうなったのでしょうか。実はオハイオ川を渡り切ったとはいえ、対岸の手前で川に落ち助けられたのです。助けた人は親子をバード上院議員の屋敷につれて行きました。上院議員は二人を森の奥の友人に助けるように頼みました。この友人は奴隷に同情的でこれまでも多くの奴隷を助けていました。男はカベの銃を指し、息子たちと「これで二人を守ってみせる」と約束しました。上院議員を動かしたのは、バード夫人でした。バード夫人は、二人に衣類を与えやさしく励ましたのです。原作者ストウ夫人の狙いがうかがえます。

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第81回 へいわ845 平成31年3月20日(水) 人種差別と平和 その8

へいわ、イメージ

さて売られたトムじいはどうしたでしょうか。客船に乗せられミシシッピー川を下っていたのです。その先には南部の奴隷市場が待つのです。トムがふと聖書から顔を上げるとはっとする美しい少女が立っています。「エバって呼ぶの」「あなたのことトムじいって呼ぶわ」。2人は心が通う会話が出来ました。船が大きく揺れた時エバは川に落ちました。とっさに飛び込んで助けたのはトムじいでした。トムじいの新しい主人はエバの父でした。娘にせがまれて奴隷商人から高額で買ったのです。ミシシッピー、美少女。絵のような描写はストウ夫人の狙い通り多くの人々の心を捉えます。私たちも歴史の舞台に参加したいと思います。

へいわイメージ
へいわ、イメージ

第80回 へいわ845 平成31年3月13日(水) 人種差別と平和 その7

奴隷、イメージ
奴隷、イメージ

皆さんの想像力は気付いているでしょう。バトラーはジョージです。別の農場で働く奴隷でイライザの夫でハリイの父親なのです。ジョージは言いました。「私の父親は白人でしたが母は黒人奴隷だったので母の手から離され売られました。誰にも愛されずに育ちました。少年の頃、夜泣いたのはひもじかったからでもムチの跡が痛かったからでもありません。誰も愛してくれる人がいないのが悲しかったからです。イライザは天使のような心の持ち主です。あすはオハイオ州へ渡ります。つかまったら殺された犬のように埋められてしまうでしょう。」この小説は19世紀アメリカの最大のベストセラーでした。百万部以上売れた初めてのアメリカ小説でした。この小説を書く目的を知ることが重要なのです。

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第79回 へいわ845 平成31年2月13日(水) 人種差別と平和 その6

奴隷、イメージ
奴隷、イメージ

「逃げた奴隷ジョーをつれもどした方へ400ドルを差し上げます」ある旅館のホールにこのビラが貼られています。老紳士がこのビラを見てつぶやきました。「私の工場で働いていたジョージだ。実に良い青年だった」。そこへ、一人の堂々としたスペイン人らしい青年が入ってきて、バトラーと名乗り部屋を求めました。老紳士はこの青年を見て首を傾げました。すると青年は老紳士に近づいて「しばらくでした。バトラーです。」と言いました。老紳士は「あっ」と叫びました。ストウ夫人は奴隷を立派な人間として描き、共感と同情を巻き起こしました。「ペンは剣よりも強し」。ペンの力で戦争を巻き起こしたといわれました。バトラーは何者か。彼が何を語るのか御期待ください。

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第78回 へいわ845 平成31年2月6日(水) 人種差別と平和 その5

奴隷、イメージ
奴隷、イメージ

トムじいやは妻のクローばあやと別れて売られていきました。一方氷を飛んで逃げたシエルビイたちはオハイオ州のバード上院議員に会いました。シエルビイは上院議員から夫のことをきかれました。夫は別の農場で働く奴隷でいじわるな主人から逃げようとしていました。ケンタッキー州のある旅館に、「逃げた奴隷をつかまえた人に礼金を出す」という広告がはられていました。それには「奴隷は2m近く、整った顔立ち、非常に頭が良く、右手にはHの焼き印がある」とあります。逃げる奴隷たちに不思議な運命が待ち構えます。

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第77回 へいわ845 平成31年1月30日(水) 人種差別と平和 その4

子を奪われる母のイメージ
子を奪われる母(イラスト)

ストウ夫人の「アンクルトムの小屋」は世論に大きな影響を与え、戦争を巻き起こした小説と言われました。リンカーン大統領はストウ夫人に会った時「大きな戦争を起こした小さな婦人」と言って敬意を表しました。前回は奴隷商人が現れた場面でした。美しい奴隷イライザはわが子・ハリイが売られる話を盗み聞きしてしまいました。イライザのからだはふるえていました。眠っているハリイをのぞき込み「かあちゃんはお前を離しはしない」とつぶやきました。イライザの目は異様に光っていました。彼女は何かを決意したのです。奴隷制の実態を知るために話を続けます。

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第76回 へいわ845 平成31年1月23日(水) 人種差別と平和 その3

南北戦争イメージ
南北戦争

今回は「アンクルトムの小屋」を取り上げます。南北戦争に於て、ストウ婦人が書いたこの物語は、アメリカの内外の世論に大きな影響を与えました。世論が戦争の勝敗に影響を与えることは当然ですが、南北戦争は奴隷解放がかかわっていたために、世論は敏感な反応を示しました。奴隷の解放は人間の解放に外ならず、人間解放のための戦いは正義の戦いということになります。世界の大きな潮流は奴隷制の存続を許さない力となっていました。ストウ婦人の小説にはこの流れを加速させる効果がありました。そのエキスを知って奴隷制と平和の本質に迫ります。

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第75回 へいわ845 平成31年1月17日(水) 人種差別と平和 その2

リンカン大統領像
リンカン記念堂にあるリンカン大統領像

アメリカの奴隷解放は人類の人権、そして平和の問題に関して極めて重要です。19世紀には北アメリカは奴隷の存在なしには成り立たなくなっていました。南部は綿花とタバコの大農園のため奴隷制を必要とし、工業の発達した北部は自由な労働力の獲得を必要とし奴隷制に反対しました。南北の対立は激化し、北部の利害を代表するリンカンが大統領に選ばれると遂に南北戦争が勃発しました。この戦いの中で奴隷解放宣言が出され、これは戦争の行方を大きく左右しました。奴隷制廃止後も黒人に対する差別は長く続き、今日もアメリカの民主主義が抱える重大な問題となっています。

へいわ845

第74回 へいわ845 平成31年1月9日(水) 人種差別と平和 その1

奴隷イメージ
奴隷、イメージ

人種差別は人類にとって永遠の課題です。古代から現代に至るまで、それは平和を脅かす原因となってきました。とくに肌の色による差別は極めて深刻でした。白を頂点とし黒を最下位に置く価値観は長い歴史の過程で信じ難い誤りを生んできました。振り返れば黒人を人間と見ないような出来事もありました。新大陸発見後に生じた大規模な奴隷貿易の底流にはそのような歴史が存在したといえます。 奴隷貿易の実態、奴隷市場、奴隷解放、法の下の平等等、滔滔とした流れが現代に迄続いています。この流れを無視して平和を実現することは不可能です。

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第73回 へいわ845 平成30年12月26日(水) 人種と平和

フジモリ大統領
フジモリ大統領

移民の子フジモリは大学を首席で卒業、農科大学の学長になりました。彼は、この国は大きく、資源も豊かなのになぜ貧しく破滅的なのかと悩みました。天文学的なインフレ、10年間のテロによる死者は1万7千人。政治家は何もできない。フジモリは大統領選出馬を決意します。2台のトラクターのうち1台を売って資金にしました。虐げられたアンデスの人たちがフジモリを熱狂的に支持しました。彼らはフジモリを通して日本人の勤勉、誠実、技術を信じました。そして、彼らを衝き動かしたのは長い間の白人に対する怨みでした。しかし、フジモリの運命はジェットコースターのようでした。「平和を支えるものは何か」を考えます。

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第72回 へいわ845 平成30年12月19日(水) 宗教とへいわ その6

ペルーの国旗
ペルーの国旗

インカ帝国を取り上げた関係で「ペルー移民」に入ります。新大陸発見後、長いこと奴隷貿易が続きましたが、それが終わりを遂げるころ、ペルー移民が始まりました。各地の農園に振り分けられた日本人は奴隷的な扱いを受け、逃げてリマに集まり苦しい下積みの生活に耐えました。勤勉な日本人はやがて経済的な基盤を築きます。そのような移民の2世として熊本から渡った人がいました。この青年はやがて故郷から妻を迎えます。その間に生まれた人が後に大統領になるフジモリでした。フジモリの大統領選は実にドラマチックでした。インカの末えい達が立ち上がり、アンデスが燃えたのです。

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第71回 へいわ845 平成30年12月5日(水) 宗教とへいわ その5

マチュピチュ
マチュピチュの遺跡

コロンブスの新大陸発見と共に多くの原住民は殺され、長く続いた王国や文化が滅ぼされました。その一つがインカ帝国です。私はマチュピチュの遺跡に立って涙を流しました。白人はキリスト教の布教を名目にして侵略と殺戮(さつりく)の限りを尽くしました。注目すべきことは同時に多くの新しい栽培植物がヨーロッパにもたらされ、人々の飢えを救いました。例えばジャガイモ、トウモロコシ、サツマイモ、トマト、タバコなど。人種、宗教、肌の色、これらによる差別と偏見は永遠の課題で今も変わりません。壮大な歴史のドラマを材料にして平和の難しさと尊さを学びます。

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第70回 へいわ845 平成30年11月28日(水) 宗教とへいわ その4

コロンブス、イラスト
コロンブス、イラスト

宗教改革を機にキリスト教は2つに割れました。旧教(カトリック)はアジアや新たに発見された新大陸で布教に力を入れました。コロンブスの新大陸発見は、原住民にとっては壮大な悲劇の幕開けでした。発達段階の異なる異文化の遭遇が何をもたらすかは宇宙時代の地球人の未来を暗示するかのようです。コロンブスは地球が丸いことを知っていました。彼の船出の動機は黄金の国ジパングを求めることでした。白人たちは原住民を人間とは見ていなかったのです。布教と侵略が一体となってやがて殺りくの限りが行われます。1492年のサンサルバドル到着はその一歩でした。

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第69回 へいわ845 平成30年11月21日(水) 宗教とへいわ その3

マルティン・ルターイラスト
マルティン・ルター、イラスト

キリスト教は世界宗教に発展し、絶対的な権力を持つようになると共に、堕落し腐敗し、かえって人々を苦しめるようになりました。そこで改革に立ち上がったのがドイツのルターでした。ルターの教えは教会により抑えられていた精神の自由を求めるものでした。ルターの教えはプロテスタントと呼ばれ、また、カトリックの旧教に対し新教とも呼ばれます。ローマ教会にも反省の動きが起きます。最も有名なのはイエスズ会でした。イエスズ会は新天地でカトリックを広めようとしました。ザビエルが日本にやってきたのもその現れです。宗教が平和と争いに大きく関わることを今回もかみ締めましょう。

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第68回 へいわ845 平成30年11月14日(水) 宗教とへいわ その2

十戒イメージ
十戒、イメージ

平和の根底には宗教があり、戦争の根底にも宗教があります。イエスはユダヤ人ですが、ユダヤ教を批判しました。ユダヤはイエスを密告し十字架にかけた民族として長い間差別されました。ユダヤ人はその祖先が神に約束された地に国を建て、そのために争いが続いています。ユダヤ人は不思議な民族です。イエスは隣人愛(平和)を説き差別された人に救いの手をさしのべました。キリスト教はローマ帝国に広がり、やがてその国教となりました。キリスト教の歩みも時に誤りを犯しながら今日に至っています。今回は古代のユダヤ教とキリスト教の一端を切り取って平和を考えます。

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第67回 へいわ845 平成30年11月7日(水) 宗教とへいわ その1

イエス・キリスト
イエス・キリスト像

宗教は人間の本質に結び付いた極めて重要な課題です。宗教は人類の歴史と共にあって、古くて新しい問題です。宗教をめぐる争いは古代から現代に至るまで絶えません。宗教は平和と密接不可分の問題でもあります。世界の三大宗教は、キリスト教、仏教、イスラム教のことです。日本人は宗教に関心が薄いともいわれますが、そのようなことは許されないことを自覚しなければなりません。多くの国から多くの留学生を迎えていますが、彼らを理解する上でも、私たちは宗教への理解を深めねばなりません。

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第66回 へいわ845 平成30年10月31日(水) 公害の原点と田中正造 その3

渡良瀬川
渡良瀬川

田中正造は渡良瀬川鉱毒問題と闘う中で、「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。文明は、今、露骨な強盗なり」と訴えました。この言葉は今も生きています。水俣病、イタイイタイ病、福島第一原発事故等の惨状を直視すればそれは明らかです。田中のこの訴えは強烈です。そもそも文明とは何かを今、私たちは真剣に考えるべきです。田中がこの言葉を日記に書いたのは1912年のことで、その直後に明治天皇は亡くなり時代の呼び名(元号)も大正となりました。今回は「文明とは何か」という文明の原点に立って、田中正造と公害を考えてみましょう。

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第65回 へいわ845 平成30年10月24日(水) 公害の原点と田中正造 その2

公害イメージ
公害、イメージ

田中正造が天皇に直訴したことは社会に大きな衝撃を与えました。特に若者の正義感に火をつけたのです。その若者たちの中には、内村鑑三、志賀直哉、石川啄木等がいました。内村鑑三たちは大挙して列車で上野駅を出発して鉱毒被災地を視察しました。被災地には鉱毒で汚染された土の山がいたる所にありました。人々は毒塚と呼びました。田中正造は鉱山の操業停止を強く訴えました。鉱毒は水源地の樹木を枯らし、その結果山は保水力を失い洪水がしきりに起こるようになりました。大洪水は栃木、群馬、埼玉、茨城から東京にも及びました。

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第64回 へいわ845 平成30年10月17日(水) 公害の原点と田中正造

足尾銅山の廃工場
足尾銅山の廃工場

現代の平和を妨げるものとして公害の重大さを改めてかみ締めます。「神の通る川」と言われる程きれいな「神通川」が魔の川に変化し、命あふれる恵みの川、渡良瀬川が「死の川」と化しました。福島第一原発のことを「核の公害」と呼ぶ人がいます。戦後の公害の原点は「イタイイタイ病」ですが、戦前まで振り返った原点は「足尾鉱毒事件」です。今回は、「公害の原点と田中正造」の第一回です。舞台の渡良瀬川には群馬県も直接関わっています。川底に堆積した汚染土は今も生活を脅かす存在です。

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第63回 へいわ845 平成30年10月9日(火) 平和と公害

公害病のイメージ
公害病、イメージ

前回、災害と平和の関係に質問がありました。平穏な暮しは平和の目的であり平和そのもの。その意味で公害の歴史を理解することは重要です。水俣病に次いで今回は「神通川」のイタイイタイ病を取り上げます。「神の通る川」と言われた川は、企業のカドミウムが流れ込む悪魔の川、死の川となりました。それは命の川であった渡良瀬川が鉱毒のために死の川に変じたのと同様です。渡良瀬川に取り組んだ田中正造が今求められています。文明の発展と共に公害は絶えず生まれるからです。社会の平和を守るために公害の歴史を知ることは非常に重要なのです。

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第62回 へいわ845 平成30年10月3日(水) 巨大災害と平和

公害のイメージ
公害、イメージ

大災害の時代に入り、平和を脅かすものは今や戦争だけでなく大災害です。大災害とは巨大地震・巨大津波・巨大台風・原発事故などですが、「公害」も加えたいと思います。「公害」とは人の責任で生ずる、公共に対する害のことです。巨大台風の例として、キャサリン台風、伊勢湾台風を取り上げます。この位の台風が今後頻繁に起こる可能性があるからです。「公害」には福島第一原発事故が最近のものですが、今回、チッソによる水俣病の実態を取り上げます。営利を追求する企業とそれを支援する国という構図は不変のものだからです。

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第61回 へいわ845 平成30年9月26日(水) 無視された警告と貞観大津波

大津波のイメージ
大津波、イメージ

貞観の大津波は869年東北の海岸で起きました。東北大の箕浦教授は地質学の方法でこの津波の痕跡を研究し、東日本大震災を予測し警告しました。予測通り巨大津波は押し寄せました。地質学の方法とは、津波が運んで堆積した地層を分析して津波の年代や大きさを調べる方法です。これによって、過去に巨大津波が周期的に繰り返されたことが分かりました。しかし、当時の学会も東電もこれに耳を傾けませんでした。「安全神話」にあぐらをかいていたのです。これを受けいれて対策を立てていれば原発事故は避けられたと言われます。

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第60回 へいわ845 平成30年9月18日(火) 大震災と平和 その2

地震イメージ2
地震、イメージ

北海道大地震は「想定外」でした。災害に関しては想定外ということは言えない時代に入りました。次はどこか。群馬は大丈夫か。関東は大丈夫か。ジワジワと足音が迫っています。90年前の関東大震災は前橋でも立っていられない程揺れました。東日本大地震はまだ終わっていません。関東に震度7クラスが来る可能性が十分あると専門家は指摘します。首都東京を震度7と観測史上にない巨大台風が同じに襲う「複合災害」を想定すべきです。内陸型が各地で起きているのは前兆であり 天の警告です。東海・東南海・南海が確実に近づいています。そこには2つの原発があります。

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第59回 へいわ845 平成30年9月12日(水) 大震災と平和 その1

地震イメージ
地震が起きたら・・・(イメージ)

北海道で大地震がありました。震度7は東日本大震災と同じ強さです。もし、海中で起きて原発があったなら、津波が発生し福島第一原発と同様なことが起きたかもしれません。今回の特徴の一つは市民の生活がいかに電力に依存しているかを突き付けたことです。多くの医療機関が停電により機能しなくなりました。診療所などの小さな医療機関でも非常用発電装置を備えないと人の命を救えないことがわかりました。災害に十分な備えをし、市民生活を守ることが社会の平和の基礎であることを示しました。

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第58回 へいわ845 平成30年9月5日(水) 核と原発 その2

事故イメージ2
爆発(イメージ)

過去の原発大事故といえば、ソ連のチェルノブイリとアメリカのスリーマイル島の事故です。重大さを示すレベルで最悪は「7」ですが、チェルノブイリが7で、福島第一原発も7でした。事故調査委の結果驚愕の事実が次々に明らかになりました。第一の例として事故時東電の会長と社長が不在だったことが挙げられました。事故前の対策の誤りと事故後の対策の失敗、この両面から迫る必要があります。同時に原発の仕組みと放射能の知識をもたねばなりません。原発事故は再び起きる可能性があります。事故を学ぶことは身を守るために絶対に必要なのです。

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第57回 へいわ845 平成30年8月29日(水) 核と原発 その1

事故イメージ
原発事故(イメージ)

8月が終わります。73年前の8月の「核」は、核の平和利用という表現で「原発」につながっています。「あのものすごい熱で蒸気をつくり、発電機を回し電気をつくる」、これが原発の原理です。だから一たび誤れば恐ろしい放射能が発生します。事故から7年経って未だ終息しません。「国会事故調査委員会」と「民間事故調査委員会」は、事故は人間のミスが招いたもの、「人災」だと結論づけました。原発をこのまま続けるのか。これは私たちに突きつけられた極めて重大な問題です。

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第56回 へいわ845 平成30年8月22日(水) 核を考える その四

日の丸
戦争から73年

昭和天皇の終戦の言葉。あれから73年を経た今回の平成天皇のお言葉、これらを合わせて読むと一つの時代が幕を閉じつつあることを感じます。「たえ難きをたえ」て歩んだ歴史を振り返って、平成天皇は「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」、「戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」と述べました。戦争の惨禍の言葉には広島・長崎の核の地獄への思いが込められていたことでしょう。たえ難い重みの松明(たいまつ)を受け継いだ天皇の胸中が偲ばれました。

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第55回 へいわ845 平成30年8月15日(水) 核を考える その三

平和祈念像
長崎の平和祈念像

広島、次いで長崎の平和式典が行われました。いずれでも市長は核のない世界の実現を訴えました。長崎の原爆投下は9日午前11時2分。その惨状は広島同様想像を絶し言葉で語り尽くすことは不可能です。長崎には国連事務総長のグテレスが参列。爆心の碑を囲む高校生たちの「人間の鎖」に注目しました。グテレス氏は「長崎を核で苦しんだ最後の場所にしよう」と訴え、高校生たちは核廃絶の決意を示しました。政治や社会問題に無関心と言われる若者は長崎の若者に学ぶべきです。

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第54回 へいわ845 平成30年8月8日(水) 核を考える その二

原爆ドーム
原爆ドーム

今年の暑さは異常ですが、73年前の8月はもっと酷い灼熱地獄の状態でした。前橋大空襲と原爆投下がありました。核はあっという間に世界に広がりました。戦争は何でもありですから核を手にすれば使われる危機は常にあります。私たちは累卵の危機にあります。人類で唯一の被爆国日本の役割は重大です。核拡散の現状と恐怖の実態を確認することが重要です。核拡散の最先端に北朝鮮問題があります。間もなく、今年も広島と長崎から世界に向けてメッセージが発信されます。私は、特別の思いで注目するつもりです。

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第53回 へいわ845 平成30年8月1日(水) 核を考える その一

アインシュタイン
アルベルト・アインシュタイン

現在、日本の平和、世界の平和を考える上で最大の問題の一つは「核」です。 北朝鮮をめぐって非核化が叫ばれ、日本の核武装を論ずる声も聞こえます。従って平和を求める私たちは核問題につき知識を持つことが不可欠です。 核は第二次世界大戦の中で生まれました。物理学者・アインシュタインも登場します。原爆の実験成功は昭和20年7月16日でした。この月の26日には早くも太平洋のテニアンに運ばれ、翌月8月6日及び7日には、それぞれ広島、長崎に落とされたのです。今年も8月が近づきました。真剣に考える時です。

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第52回 へいわ845 平成30年7月25日(水) 松井かずと中国、最終回

昭和の黒電話
昭和の黒電話

松井かずは吾妻郡原町に着いた。駅前の山田洋品店が姉の家。朝まで語った。朝まちの人々が集まった。同級生、幼な友達。「かずちゃん、ずい分若いね、苦労してないみたい」と。5人の子どもたちの姿が目に。一人の同級生が「日本は戦争に負けてよかったのよ」と。娘たちは中国で結婚。全て落ち着いてから家族と共に日本へ。昭和64年大変なことが。昭和天皇の死。国民は大変だった。皇居前で石のように土下座する人々。「お供する」と自殺した人も。公営ギャンブルは中止。ポルノ映画館には黒い幕が。パチンコ店は音楽とネオンが。
時代は平成に。

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第51回 へいわ845 平成30年7月18日(水) 松井かず、日本へ

浦島太郎のイメージ
浦島太郎、イメージ

昭和47年田中首相(当時)が北京を訪ね、日中国交樹立が実現しました。「手のひらを返すようにまわりの態度が変わり嬉しかった」とかずさんは振り返りました。30年ぶりに日本を見た驚きと喜びは大変でした。空港には多くの人が出迎えました。夜の東京はこれが日本かと疑うほどでした。翌朝、朝日に照らされる吾妻の古里を見たときの感激。同級生は「浦島太郎ね」と言いました。かずさんは中国にいる家族を日本に呼ぶ決意を固めます。今年は日中国交正常化46年。平和の尊さをかみ締めましょう。

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第50回 へいわ845 平成30年7月11日(水) 満州移民の悲劇 その3

天安門広場
毛沢東が掲げてある天安門広場

平和と戦争は不可分です。その事実は歴史が示しています。
松井かずは、満州の地獄から抜け出て中国人男性と結婚し5人の子供を設けます。かずはやがて思いもよらない政治の嵐・文化大革命に遭遇します。日本人はいじめられました。かずの故郷への想いはつのります。やがて日中国交回復が成り、かずは日本へ手紙が出せるようになります。待ちに待った父の手紙が届きました。夢にまで見た日本、父や母や兄、妹たちに会える日は来るのでしょうか。

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第49回 へいわ845 平成30年7月4日(水) 満州移民の悲劇 その2

満州の位置
満州の位置

日本国政は平和と復興を目指して立ち上がりましたが、大陸に残された人々は新たな戦に巻き込まれていました。この人たちに平和が訪れなければ日本国民の平和は実現しません。 松井かずを通して地獄の満州を知るのが目的です。かずは生死の境を脱するために炭坑で働く中国人男性と結婚し家族をつくります。 やがて、日中の国交正常化が実現します。かずが一時帰国して目にした日本は正に驚くべき光景でした。

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第48回 へいわ845 平成30年6月27日(水) 満州移民の悲劇 その1

移民
移民、イメージ

敗戦の日本国にとって最も難しい問題は海外の居留民の引き揚げでした。とりわけ悲惨だったのは旧満州にいた人々で開拓民の人々は地獄の苦しみを味わい、多くの残留孤児ができ、女性たちの苦しみは言語に絶するものがありました。
また、シベリアに強制抑留された人々はおよそ60万人おり、寒さと飢えと強制労働で6万人の人々が命を落としました。戦争は事後が大変なのです。平和の実現は容易ではありません。失われるのは一瞬です。このことをしっかり噛み締めましょう。

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第47回 へいわ845 平成30年6月20日(水) 平和を目指して その2

へいわ
へいわイメージ

敗戦による廃墟から立ち上がる国民にとっての最大の励ましは日本国憲法でした。国民は主権者となりました。それにふさわしい大きな自由と力が与えられました。基本的人権の保障です。言論の自由、思想・信条の自由、学問の自由、宗教の自由、そして両性の平等が実現されることになったのです。昭和22年5月3日、新憲法が施行されました。この年、私は小学校に入学しましたが、教科書もこの年、民主主義にふさわしいものに変わりました。 その初めの一頁を飾る詩は「おはなをかざるみんないい子」で、私は今でも覚えています。平和とは血と汗によって勝ちとるものです。

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第46回 へいわ845 平成30年6月13日(水) 平和を目指して その1

国会議事堂
国会議事堂

昭和20年という年は日本にとって正に有史以来の転換点でした。新しい価値観に立って平和を築く原点の年でした。翌21年1月1日、天皇は「人間宣言」をしました。その意味をかみ締めます。又、平和の動きとして最も重要なのは日本国憲法の制定です。難しいかも知れませんが挑戦しましょう。そして、教訓として学ばねばならぬことは、廃墟の中から復興に向けて立ち上がった国民の逞しい姿です。物は極端に不足していましたが、心には希望がありました。全国どこでも、人々を励ますように「リンゴの唄」が流れました。

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第45回 へいわ845 平成30年6月6日(水) 鈴木貫太郎、その4 「ポツダム宣言4」及び「終戦の証書」

イメージ画像、敗戦
ロンドンにあるウィンストン・チャーチル像

①日本国民の間に於ける民主主義の復活強化の障害を除去すべし。 言論、宗教、思想の自由並に基本人権の尊重は確立せらるべし。全日本国軍隊無条件降伏を宣言す。それ以外の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみ。ポツダム宣言の要点です。

②「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍んで万世のために太平を開かんと欲す」、これが天皇の真意であった。これを決めた時、天皇は涙を流したと鈴木は伝えています。

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第44回 へいわ845 平成30年5月30日(水) 鈴木貫太郎、その3

イメージ画像、敗戦
イメージ画像、敗戦

昭和20年の8月は日本の運命がかかった月でした。客観的には日本の敗戦は決定的でしたが、まだ何百万という兵士は健在で、本土決戦を覚悟する人々は少なくなかったのです。

本土決戦となれば、戦国時代のような混乱は必至です。御前会議が重ねて開かれました。議論は尽きません。ここで鈴木貫太郎は秘かに決意していたことを実行に移しました。

今日の平和は、大変な犠牲を払って、その一歩が作られたのです。平和が「たなボタ」で実現したものではないことを、今回、かみ締めたいと思います。この会議の時も、飛行機で飛び立った若者がいたのです。

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第43回 へいわ845 平成30年5月23日(水) 鈴木貫太郎、その2

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御前会議の様子(wikipediaより)

鈴木貫太郎は78歳で総理大臣となりました。鈴木は死を覚悟して引き受けたと言われます。その時、鈴木の胸にあったものは何か、鈴木の戦争観とは何か、死を覚悟して何をしようとしたのか。これらを語ります。鈴木は真の軍人であるだけに、平和の尊さを知っていたのです。そして平和を勝ち取る戦略を深く考えたのです。 鈴木の最大の戦いの場は御前会議でした。天皇との人間関係、帝国憲法のこと、ポツダム宣言への対応などに話は向かいます。真の軍人の使命は国民の命を守ること、それは平和を守ることであることを鈴木の歩みから学びたいと思います。

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第42回 へいわ845 平成30年5月16日(水) 鈴木貫太郎、その1

イメージ画像
鈴木貫太郎(wikipediaより)

鈴木貫太郎は、日本を救った総理大臣と言われます。その生涯の軌跡を辿ります。前橋の桃井小学校、群馬中学(現前橋高校)を経て海軍兵学校に進みました。二・二六事件の時、暴徒に撃たれました。日本を救ったのは太平洋戦争終結時の鈴木の行動でした。鈴木は軍人でしたが平和を求める人でした。78歳で首相に就任。この首相の時、広島・長崎の原爆投下、ポツダム宣言受諾、天皇の終戦放送がありました。楫取素彦との関係も重要です。

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第41回 へいわ845 平成30年5月9日(水) サイパンの戦い、その1

サイパンに残された戦車
現地にそのまま残されている戦車

サイパンは東京まで2250キロ、ここを失えば日本は負けると信じられていました。サイパンは正に日米決戦の死命を制する島でした。アメリカは空の要塞・B-29を完成させていました。その航続距離は5600キロ。4トンの爆弾を積み、1万メートルの上空を時速600キロで飛ぶことができました。アメリカは、サイパンを取れば、B-29による攻撃が可能になります。硫黄島はB-29の日本攻撃を補強するために重要でした。日本はサイパンを絶対国防圏の中心と位置付けていました。サイパン、テニアン、グアムと米軍はじわじわと迫ります。サイパンには多くの島民がいました。今回も平和の尊さをかみ締めたいと思います。

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第40回 へいわ845 平成30年5月2日(水) 硫黄島の戦い、その2

American flag

栗林中将は、地下に陣地を作り、全将兵を地下に潜って戦わせました。すべての陣地を地下に作り、それを通路で結んで行き来できるようにしたのです。敵の不意をついて奇襲攻撃する戦術は効果的であり、圧倒的に優位な相手に対する戦術として考え出されたゲリラ戦の手法でした。地下に穴を掘る作業はとても大変で、60℃にもなる地熱と、ところどころで吹き出す硫黄ガスとの戦いでした。地質の固い所は、ツルハシで1日かけて掘ってもやっと1m進む程でした。着衣はふんどし1本で、5~10分で交代するという正に地獄の中での作業でした。時々降るスコールは天の助けでした。ある将軍は次のように詠みました。
「スコールは命の水ぞ 雲を待つ 島の心を余人は知らじ」と。
このようにして命懸けで日本を守ろうとした人々の姿を、私たちは今、平和のためにしっかりと受け止めねばなりません。

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第39回 へいわ845 平成30年4月25日(水) 硫黄島の戦い、その1

硫黄島の位置

米軍がいよいよ迫ります。東京まで1,500キロ。山手線内ほどの島。アメリカは一週間で占領できると考えました。それを阻止する栗林中将の作戦は成功したのです。地下のゲリラ作戦です。ゲリラ戦とはどんな戦いだったのでしょうか。栗林中将の人間像はどんなものだったのでしょうか。この島が占領されればアメリカは日本のどこの大都市も攻撃できるのです。栗林はアメリカを最も苦しめた名将だったのです。この島には一本の川もない。湧き水も一切ない。水の一滴は血の一滴でした。「アメリカの若者をこれ以上死なせるな」の世論が沸騰しました。そこでアメリカが選んだ手段とはなんだったのでしょう。

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第38回 へいわ845 平成30年4月18日(水) パプアニューギニア地獄の戦場、その3

beautiful ocean after the war
パプアニューギニアの海

今回はニューギニアの最終回として、平成13年に私が訪問した時の写真を使って南海の果てに散った日本人の犠牲と平和の意味を探ります。歴史は繰り返されます。多くの犠牲を平和のために生かす時なのです。石器時代に近い状態の社会と差別なしに付き合うことが平和の基礎になるべきです。何千人の死者を出した「サラワケット越え」と文房具を届けた小学校にも触れます。南の島々が温暖化の危機に晒されています。日本の力を役立てる時でもあります。

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第37回 へいわ845 平成30年4月4日(水) パプアニューギニア地獄の戦場、その2

山本バンカー
山本バンカー

ラバウルは日本にとってもアメリカにとっても非常に重要でした。だから日本はここを守るために死力を尽くしました。戦線を視察するためここを飛び立った山本五十六長官は待ち構えた米軍機によって撃ち落されました。暗号が全て読まれていたのです。アメリカは大戦中の最大の戦果の一つと喜びました。山本五十六、井上成美、米内光政の海軍トリオは開戦に反対し、三国同盟に強く反対したことにも触れます。 なぜ戦争を回避できなかったかを地獄の戦場を踏まえて振り返ります。

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第36回 へいわ845 平成30年3月28日(水) パプアニューギニア地獄の戦場、その1

戦車
日本軍が使用した戦車

平成13年(2001年)に、私はパプアニューギニアを慰霊巡礼で訪ねました。地の果ての美しい海とジャングルはかつての地獄の戦場でした。ニューギニアは、アメリカとオーストラリアの連携を断って日本を守る砦でした。ラバウルにはゼロ戦の残骸が横たわり、無数の日本人を飲みこんだダンピール海峡は青く黒くうねっていました。出発は10月21日。その直前9月11日にはニューヨークであの同時多発テロが起きていました。戦争の歴史は繰り返されるのです。その意味で、今、「地獄の戦場」をふり返る意義は大きいと思います。

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第35回 へいわ845 平成30年3月21日(水・祝) 沖縄戦 その3

a girl with a white flag
白旗の少女

今回は、白旗の少女のその後、対島丸の悲劇、戦艦大和、カミカゼ特攻隊などを取り上げます。これらは沖縄戦の断片ですが、現代の私たちに何を語りかけているかを問うことは極めて重要です。悲劇の断片は一つ一つが平和の礎なのです。これらが今、忘却の彼方に去ろうとしています。歴史は繰り返されます。沖縄の人々の死を無駄にしないためには、その忘却を食い止めねばなりません。戦争の足音が近づく今こそ、その時なのです。私たちの心に不毛の砂漠が広がりつつある危機を感じます。今回は、当時の世界の状況を示す一コマも取り上げます。

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第34回 へいわ845 平成30年3月14日(水) 沖縄戦 その2

平和祈念公園
沖縄の平和祈念公園

一般住民を巻き込んだ戦争がいかに過酷で悲惨であるかを如実に示すのが沖縄戦でした。それは、もし本土決戦になったらこうなるだろうということを語っていました。「生きて虜囚(りょしゅう)となるのは恥」、「米兵は鬼畜」と教え込まれた多くの人々は自決の道を選びました。昭和20年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸、6月18日ひめゆり部隊集団戦死、6月23日、日本兵全滅と進みました。今回は沖縄住民の実態に焦点をあてます。

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第33回 へいわ845 平成30年3月7日(水) 沖縄戦 その1、ひめゆり部隊

ひめゆり
沖縄県糸満市にあるひめゆりの塔

看護要員として動員され戦死した少女たち。記念館を訪れる現代の高校生たちが泣く姿を見て私も泣きました。唯一つ、住民を巻き込んだ戦争の悲惨さを象徴的に現わすのがひめゆり部隊です。ひめゆりのような純真な少女たちは「生きたい、生きたい」と心に叫びつつ死にました。「それが戦争というものだ」では片づけられないものがあります。ひめゆり部隊の最期を通じて、沖縄戦の理解に近づこうと思います。沖縄戦を何回か取り上げます。本土防衛の砦であり、そのための捨て石とされた沖縄。沖縄戦を知らずして太平洋戦争の実態を知ることはできません。

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第32回 へいわ845 平成30年2月28日(水) 近代オリンピック その6、パラリンピック

レーサー
車椅子による陸上競技

パラリンピックは、パラレル(もう一つ)のパラとオリンピックの合成語。もうひとつのオリンピックの意で、障害者のオリンピックである。腕や足を失った人、視力を失った人などが胸を張って生き生きと躍動する姿は胸を打つ。この姿によって勇気づけられる人々は多く、障害者たちだけではない。そしてわたしたちは、障害者に対して抱く差別と偏見がいかに誤りであるかに気づかされる。彼らが限界に挑戦する素晴らしい姿を謙虚な気持ちで紹介いたします。

へいわ845

第31回 へいわ845 平成30年2月21日(水) 近代オリンピック その5、北京五輪(平成20年)

中国の天安門広場
毛沢東を揚げる天安門

2008年8月8日午後8時。史上最多・204の国と地域。日本の旗手は福原愛。会場は10万人を収容する「鳥の巣」。スローガンは「ひとつの世界、ひとつの夢」。近代的世界都市建設、世界へ中国の威信を示す。そのために中国社会の団結と安定を実現する。築かれるものと失われるものは何か。少数民族の問題、発展と格差、共産党の一党独裁、これらを乗り越えて中国は一つだ。そのためには団結と安定が第一で、それを実現し世界に示すことが北京五輪の目的。

へいわ845

第30回 へいわ845 平成30年2月14日(水) 近代オリンピック その4、東京五輪(昭和39年)

近代オリンピック4
五輪、陸上競技イメージ

東京五輪は昭和39年(1964)で、敗戦から立ち上がった日本が、目ざましい躍進の姿を世界に示す結果になった。新幹線、カラーテレビも登場。日本中が火の玉のようになった。しかし、「より大切なのは、真の感動・人間的感動だ」という声があった。マラソンの円谷幸吉、東洋の魔女の女子バレー、柔道はヘーシンクに敗北したことなどが衝撃だった。 オリンピックは今、曲がり角に。次の東京五輪が近づいた。前回の東京五輪から学ぶものは何か。三波春夫の五輪音頭が甦る。

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第29回 へいわ845 平成30年2月7日(水) 近代オリンピック その3

近代オリンピック3
モハメド・アリ(1960年オリンピック・ローマ大会、ライトヘビー級にて金メダル)

へいわの祭典オリンピックで心を打つのは一人一人の選手の限界に挑戦する姿です。しかしその背景には人種・肌の色・宗教・文化の違いがあり、それらを乗り越えて一つになることに平和を支える意味があります。そういう視点から今回はモハメド・アリ、アベベ、ベン・ジョンソン、ジェシー・オーエンス、キャシー・フリーマンなどを取り上げます。短い時間ですが人種差別の現実と歴史についても語ります。私たちの心に平和の砦を築こうと思います。

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第28回 へいわ845 平成30年1月31日(水) 近代オリンピック その2

バルセロナオリンピック
デラルツ・ツル(左)と、エレナ・マイヤー(右)
スペイン、バルセロナ大会(1992年)

オリンピックは平和の祭です。それを支えるのは友情、連帯、フェアプレーの精神です。今回は2つの例を紹介します。一つはバルセロナ大会。女子1000mで優勝したエチオピアのデラルツ・ツルは2位のエレナ・マイヤーを待ち、手を取り合ってウィニングランをしました。マイヤーは南アフリカ共和国です。 二つ目はアテネ大会のバンデルレイ・デ・リマです。男子マラソンでトップだった彼は36キロ付近で暴漢におそわれましたが完走し、銅を得ました。

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第27回 へいわ845 平成30年1月24日(水) 近代オリンピック その1

近代オリンピックイメージ

近代オリンピックはクーベルタンの提唱によりアテネでスタートしました。スポーツを通して友情をつちかい世界平和を目指すことがオリンピックの目的ですが、政治への利用、勝つことに重点を置き過ぎた弊害など、いろいろな問題点を抱えています。 オリンピックをふり返ることにより、人類が直面する様々な問題が浮き上がります。 黒い稲妻のように走る黒人選手の躍と、それに全世界が拍手喝采する姿は、オリンピックとは何かを雄弁に物語っています。世界が大きく混乱し人類の危機も叫ばれる今こそ、オリンピックの歴史を見つめる時です。

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第26回 へいわ845 平成30年1月17日(水) 日本人政治家として初めて強制収容所を訪ねた高良とみ

へいわ845第25回
高良とみ(1896年―1993年)

高良とみは戦後初の参議院議員。そして国法を犯してシベリアに渡り、強制収容所を視察した。しかし、そこで見たものは「つくられた」状況だった。日本人は彼女のバッグに貼られた日の丸を見て涙した。祖父は群馬の蚕聖と言われた田島弥平。母は前橋女子高の卒業生である。とみが会った人々は長期の戦犯で、日本との文通は禁止されていたが、とみの尽力により家族との葉書の交信や雑誌の送付が可能となった。人々は雑誌を通して知る祖国の変化に驚いた。これらの人々の帰国は昭和31年の国交回復の時。とみの訪問は昭和27年であった。

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第25回 へいわ845 平成30年1月10日(水) シベリア強制抑留 その3、スターリン大元帥への感謝状

へいわ845第25回
スターリン(1878年―1953年)

私は「スターリン大元帥への感謝状」のコピーをハバロフスクの国立古文書館で入手した。許可されるのに面倒な手続きがあった。よくもここまでゴマをすったと唖然とする。スターリンを「人類最大の天才、全世界勤労者の導きの星」と誉め上げ、自分たち日本国民のことを「日本の勤労者はあまりにも長い間資本家どもの盲目の奴隷となってきました」と表現し、日本の資本家階級を「強盗的帝国主義者、極悪非道の極東の憲兵」と非難する。正に自虐的文章の典型というべきもの。この長文の文章に日本人は長い列を作って争って署名した。これは何を意味するのか考えたい。

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第24回 へいわ845 平成29年12月20日(水) シベリア強制抑留 その2

へいわ845第24回シベリア強制抑留
引揚船をむかえる舞鶴の女性たち

故郷を思う心は狂おしい程だった。耐えられない人々は歌をうたった。「異国の丘」はシベリア中に響いた。共産主義教育の効果が上がった者が帰国できると信じられた。その中で仲間をつるし上げる運動が「民主運動」の名で進められた。やがて帰れる日が近づく。人々はソ連が見えなくなる迄不安だった。日本の島々が見えた時の喜びは筆舌に尽くし難いものだった。我が子を待つ老母、夫を待つ妻。舞鶴の岸壁は涙にむせび抱き合う人々であふれた。幸いにして帰国出来た人々の胸には黒パンを分け合った姿、凍死して埋められた仲間たちのことが深く突き刺さっていた。

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第23回 へいわ845 平成29年12月13日(水) シベリア強制抑留 その1

へいわ845第23回シベリア強制抑留
強制収容所の室内を再現したジオラマ
(平和祈念展示資料館)

終戦の年に約60万人の日本人がシベリアに抑留され、そのうち約6万人が飢えと寒さと過酷な労働で死んだ。生還できた人もみなこの世を去りつつある。狂おしい程の望郷の思いを知らねば平和の尊さは分からない。戦争の過酷さも分からない。抑留の開始は昭和20年の秋。最後の帰国者は昭和31年の年末だった。

私が日本人として初めて入手した「スターリン大元師への感謝状」は日本人の悲しい心を雄弁に語る。

初めて強制収容所を訪ねた女性国会議員である高良(こうら)とみとは? 続く

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第22回 へいわ845 平成29年12月6日(水) ヒロシマ ― その2

へいわ845第22回ヒロシマ
トルーマン大統領
任期:1945年4月12日―1953年1月20日

広島はリトルボーイ、長崎はファットマン。投下目標は最後まで京都にこだわったが、7月末、広島、小倉、長崎、新潟に。ソ連の参戦前に投下したかった。ルーズベルトは4月に死ぬ。

  • 非核3原則とは。
  • 非核自治体宣言。
  • 日本は全自治体の4分の3。世界的にはマンチェスターが最初。

世界の核保有国は、①アメリカ②ロシア③中国④フランス⑤イギリス ⑥イスラエル⑦インド⑧パキスタン。  (北朝鮮)。

  • ラッセル・アインシュタイン宣言。
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第21回 へいわ845 平成29年11月29日(水) ヒロシマ ― その1

へいわ845第21回ヒロシマ
ヒロシマ(1945年)

現在、人類の平和を脅かす最大の脅威は「核」である。日本は人類初の核被爆国。日本国民として、また人類の一員として「核」の知識を持つ必要がある。

原爆はなぜ誕生したか。

原爆の原理は何か。

なぜ日本に落とされたのか。

核が世界に広がりつつある。知識がなければ反対することも賛成することもできない。核は私たち一人一人の問題である。先ず1945年8月6日に広島市に落とされた事実から始めよう。今、「核」は新たなる問題となっている。

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第20回 へいわ845 平成29年11月22日(水) 杉原千畝 ( すぎはらちうね ) その2

へいわ845第20回千畝の切手
リトアニアの切手(2004年発行)

杉原千畝は終戦を迎えソ連の捕虜となりシベリア鉄道で日本に帰り、外務省をやめる。長い年月が経ち、ある日、イスラエル大使館から連絡がある。待っていた人はニシュリ。千畝のビザで助かった人だった。あの時のユダヤ人は千畝を探していた。ニシュリの手にはあの時のビザが。千畝はイスラエルから「諸国民の正義の人賞」を贈られる。

その翌年、杉原千畝は86歳でこの世を去る。人権尊重を貫き人類の平和に貢献した偉大な人生であった。

リトアニア
リトアニアの位置

第19回 へいわ845 平成29年11月15日(水) 杉原千畝 ( すぎはらちうね ) その1

へいわ845第19回
杉原千畝(1900年1月1日―1986年7月31日)
日本の外交官

杉原千畝は6,000人のユダヤ人にビザを発給した人物。時は第二次世界大戦中で、ヒトラーはユダヤ人絶滅政策を進めていた。この政策から逃げようとするユダヤ人は必死でビザを求めた。日本はヒトラーのドイツと三国同盟を結んでいたため、ドイツのユダヤ人政策に反対できない。

杉原は本省の許可がないまま独断でビザを書いた。

彼を衝き動かしたものは人道主義、そして武士道の精神であった。今日本人に求められるものは、これである。

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第16回 へいわ845 平成29年10月25日(水) マーティン・ルーサー・キング・ジュニア その2

へいわ845第16回
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(1963年撮影)

講義の目次

  1. アトランタは「風と共に去りぬ」の町と呼ばれたが、今では「非暴力の町」、「キング牧師の町」と呼ばれている
  2. ケネディの救いの手、KKK(クー・クラックス・クラン)、パークス婦人の逮捕について
  3. 最高裁判決、非暴力の勝利、非暴力の考え方、について
  4. 「私には夢がある」、キング牧師の演説、ケネディ大統領暗殺について
  5. ノーベル平和賞受賞について
  6. キング牧師の暗殺について
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第15回 へいわ845 平成29年10月18日(水) マーティン・ルーサー・キング・ジュニア その1

へいわ845第15回
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
(1929年1月15日 - 1968年4月4日)
アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師

黒人を動物のように扱う奴隷制度が廃止された後も、黒人への差別は続きました。黒人も人間である以上、白人と平等でなくてはならない筈です。理屈はそうであっても、理想は待っているだけでは実現しません。その黒人の平等を求めて闘ったのが、マーティン・ルーサー・キング Jr.でした。彼が読んだ本の中で一番心を揺り動かされたのはマハトマ・ガンディーの非暴力の教えでした。キングはインドで成功したことは、アメリカでも成功すると信じました。やがて、彼は黒人の正義を求める運動の指導者になります。

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第14回 へいわ845 平成29年10月11日(水) マハトマ・ガンディー その2

へいわ845第14回
インドの紙幣にはすべてガンディーの肖像が印刷されている

マハトマとは「偉大なるたましい」という意味。非暴力・不服従でインドを独立させた。ガンジーにならった政治の指導者には、キング牧師、ダライ・ラマなどが居る。アインシュタインも大きな影響を受け、また手塚治虫はイギリスに立ち向かうインドとガンジーにヒントを得て「鉄腕アトム」を書いた。ガンジーは「すべての日本人へ」という手紙を書き、日本の軍事主義を批判した。78歳の時に暗殺された。

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第13回 へいわ845 平成29年10月4日(水) マハトマ・ガンディー その1

へいわ845第13回
糸車を廻すマハトマ・ガンディー
(1869年10月2日―1948年1月30日)

インド独立の父。1869年10月2日生まれ。毎年10月2日は「ガンディー記念日」、また国連はこの日を「国際非暴力デー」とした。インドはイギリスの植民地だった。ガンディーは独立運動の指導者。民衆暴動でなく「非暴力不服従」を提唱。イギリス製の綿製品を使わず、インドの伝統的手法による綿製品を積極的に使用した。彼の不服従運動は、世界中から注目された。イギリスの塩税に抗議して行った「塩の行進」は、その不服従運動の一つである。最後にガンディーが残した個人資産は竹の杖、糸車、携帯用便器、一匹のヤギ。

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第12回 へいわ845 平成29年9月27日(水) アンリ・デュナン その2

へいわ845第12回
トマ・ジュアネ演じるジャン・アンリ・デュナン
(映画、「アンリ・デュナン物語 国際赤十字誕生」(2006)より)

デュナンが創立した赤十字についてのサマリー

  • 世界赤十字デーは、デュナンの誕生日である5月8日
  • 日本赤十字社の前身は西南戦争の1877年に設立された博愛社
  • 1886年、日本がジュネーブ条約調印。その翌年、博愛社は日本赤十字社となる
  • 1888年磐梯山大爆発に際し、戦争だけでなく、初めて自然災害で赤十字社が活躍
  • 日清戦争時、日本赤十字社は初めて国際紛争の医療救護班を戦地に送り出した
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第11回 へいわ845 平成29年9月20日(水) アンリ・デュナン その1

へいわ845第11回
ジャン・アンリ・デュナン
(Jean Henri Dunant, 1828年5月8日 - 1910年10月30日)
スイスの実業家、赤十字の創設者

デュナンはスイスの名の知れた旧家の長男として生まれた。名門校に入学したが、成績が悪く退学。YMCA(キリスト教青年会)で活躍。デュナンはYMCAを世界的組織にすることを提唱。デュナンによりパリで「YMCA世界同盟」が結成された。「人類みな兄弟」と答えたことで有名。

1901年、第一回ノーベル平和賞を受賞。賞金は赤十字社に寄付。彼の誕生日である5月8日は国際赤十字デー。赤十字の父と呼ばれる。赤十字の活動は捕虜への人道的救援、災害被災者への救援と拡大していく。

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第10回 へいわ845 平成29年9月13日(水) ナイチンゲール その2

フローレンス・ナイチンゲール
クリミア戦争中、スクタリ(トルコ)の病院で看病をするフローレンス・ナイチンゲール

「白衣の天使」、「ランプの天使」と言われたナイチンゲールの姿は、「平和の天使」でもありました。傷ついた兵士は彼女の姿を見て、戦争の愚かさと平和の尊さを知り、その気運は世界中に広がりました。彼女の活躍は「万国赤十字社」創立の気運を作りました。

①敵味方の区別なく看病しよう。 ②看病の仕事をする人には絶対に害を加えない。 ③病院の印として白地に赤い十字の旗を揚げる。  これがジュネーブ条約の骨子となっています。

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第9回 へいわ845 平成29年9月6日(水) ナイチンゲール その1

へいわ講義用画像
フローレンス・ナイチンゲール(享年90)
近代看護教育の母。
1820年5月12日(江戸・文政時代)生。
  • 1910年(明治43年、韓国併合の年)、90歳で逝去。
  • クリミア戦争で負傷兵に献身的に尽くす。
  • ナイチンゲールの誕生日である5月12日は、国際看護師の日。
  • ロンドンにはナイチンゲール看護学校がある。これは世界初の宗教系でない看護学校である。
  • 当時看護師は病院で病人の世話をする単なる召使いと見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた。また、「白衣の天使」と呼ばれた。
  • ナイチンゲールは、「天使とは苦しむ者のために戦うものである」と言った。
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第8回 へいわ845 平成29年8月30日(水) マザー・テレサ その2

へいわ講義用画像
マザー・テレサ(享年87)

マザー・テレサは日本の講演会で話しました。

「この豊かな国で大きな心のまずしさを見ました。人間にとって本当のまずしさとは、社会から見捨てられて自分はだれからも必要とされないと思うことです。」

マザー・テレサは、身寄りのない「死を待つ人々」に温かい手を差しのべました。

マザー・テレサはハンセン病の人たちのために「平和の村」をつくって救いの手を差しのべました。

また、捨てられた孤児のために寄付をあつめ、愛の住処を作り迎え入れました。

インド、カルカッタの様子、参考資料

カルカッタの様子
カルカッタの様子
カルカッタの様子
カルカッタの様子
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第7回 へいわ845 平成29年8月23日(水) マザー・テレサ その1

へいわ講義用画像
マザー・テレサ(享年87)
カトリック教会の修道女
「神の愛の宣教者会」の創立者

講義目次

  1. 死を待つ人の家、孤児の家、平和の村
  2. 「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」
  3. ケアする相手の状態や宗派を問わない。尊敬する教派はカトリック。ノーベル平和賞の19万2000ドルはすべてカルカッタの貧しい人々のために使われた。
  4. 「死を待つ人の家」入口に堂々と Dying と書かれた看板
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第6回 へいわ845 平成29年8月16日(水) ワンガリ・マータイその2

へいわ講義用画像
ワンガリ・マータイ(享年71)
ケニア出身の環境保護活動家
政治家
ケニア共和国の位置

①グリーンベルト運動(GBM)

②ケニアは砂漠化の脅威に

③ケニアの女性中心に3000万本の樹を植えた

その結果、植えた樹木から採れた果実を売って収入にする女性が出てきて、女性の働き方の選択肢が広がることとなった。

④草の根運動の意義

国単位のプロジェクト等、大きなことではなくて、自分の身近な足元から少しづつ行動していくこと。それが実を結ぶことを証明した。

⑤木はCO2を吸収する

⑥無駄な消費が環境を壊す

ものを大切にする心が平和に繋がる

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第5回 へいわ845 平成29年8月9日(水)

へいわ講義用画像
ワンガリ・マータイ(1940―2011)
ケニア出身の環境保護活動家、政治家

人種、女性、環境は世界の平和を考える上で不可欠です。

マータイは、アフリカ・ケニア生まれです。

「環境、民主主義、平和への貢献」でノーベル平和賞を得ました。アフリカ人女性として史上初です。

来日して「もったいない」という言葉を知り感銘して、国連の女性委員会で全出席者と「もったいない」を唱和し、「MOTTAINAI」のキャンペーンを展開しました。国連平和大使に任命されました。著書に「モッタイナイで地球は緑になる」があります。

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第4回 へいわ845 平成29年8月2日(水)

へいわ講義用画像
ネルソン・マンデラ(1918―2013)
南アフリカ共和国元大統領、弁護士
南アフリカ共和国の位置

南アフリカは激しい人種差別の国でした。この人種差別をアパルトヘイトといいます。マンデラはこれに反対し、27年間投獄されたのです。獄中でも勉強を続け法学士号を取得しました。

釈放後、長くアパルトヘイト撤廃に尽くしたことでノーベル平和賞を得ました。授賞理由は、アパルトヘイト体制を平和的に終結させて新しい民主的な南アフリカの礎を築いたことです。

南アフリカ初の全人種参加選挙により大統領に就任。民族和解・協調政策をすすめました。

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第3回 へいわ845 平成29年7月26日(水)

へいわ講義用画像
マララ・ユスフザイ(20)
パキスタン出身、人権運動家

世界の平和は命懸けの人間の努力によって支えられています。平和を空気のように当たり前と受け止める私たちは、これらの人々の努力から真剣に学ばねばなりません。

このシリーズではノーベル平和賞を得たマララ・ユスフザイ、ワンガリ・マータイ、ネルソン・マンディラ等を取り上げます。

今日は、イスラム教徒の少女マララです。彼女の命懸けの生き方から、平和の尊さ、平和を守るにはどうしたらよいのかを学びたいと思います。

へいわ845

第2回 へいわ845 平成29年7月19日(水)

へいわ講義用画像
ニューヨークにある国際連合本部

なぜ戦争は起こるのでしょうか。歴史を振り返れば、それは自国の利益を第一に考え、他国をかえりみない間違ったナショナリズムでした。世界が理想的な一つの国になれない以上、各国が話し合い、協調するルールをつくらねばなりません。

第一次世界大戦の反省から作られたものが国際連盟でした。国際連盟は失敗し、第二次世界大戦後国際連合ができ、現在に至っています。この国際連合の目的は、世界平和の維持です。

へいわ845の様子
朝の朝礼風景、講義中

第1回 へいわ845 平成29年7月12日(水)

折り鶴イメージ

平和とは戦争がなく世の中が平穏であることである。人類の歴史は戦争の明け暮れだった。現在も世界各地で戦争が起き、その中で平和が求められている。現代日本の原点は70年前の敗戦であり、そこから生まれた日本国憲法である。

日本国憲法は次の3つの基本原理を掲げる。

  1. 国民主権
  2. 基本的人権の尊重
  3. 平和主義

憲法前文には「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。

講義中の中村先生

講義を進める中村紀雄名誉学院長

掲載責任:中村紀雄事務所

中村紀雄名誉学院長プロフィール:
東京大学卒業。
日本ペンクラブ会員。